三浦 環。 エール双浦環のモデルは三浦環オペラ歌手!結婚と子供は?蝶々夫人(マダム・バタフライ)で大絶賛!

金子ノブアキ演じた画家・藤田嗣治とオペラ歌手・三浦環を結ぶ線【今週の「エール」豆知識】(日刊ゲンダイDIGITAL)

三浦 環

NHK連続テレビ小説『エール』で、柴咲コウさんが演じるソプラノ歌手・双浦環のモデルは、「マダム・バタフライ」と言われた実在の国際的オペラ歌手・三浦環(1884ー1946)だ。 まさに『エール』でドラマが展開している昭和初期、三浦環自身が『婦人公論』(昭和11〈1936〉年10月号)に自叙伝を寄せていた。 1回16ページを全3回という膨大な分量でもって、52歳の環が振り返る「偽りなき過去」とはーー。 燃えるような緋の袴、紫の着物、白いリボン、それがサッソウとペダルをふんで行くのだから、たしかに世間の視聴を集めたのに無理はなかった。 自転車小町などという仇名がつけられて、毎日のように新聞紙上をさわがしたものだった。 芝を出て神田から一ツ橋にかかると学生達が大変なさわぎで、なかには「闇の夜には気をつけろ」などとどなる者もあった。 女だてらに自転車に乗ったりして生意気なというのである。 毎日恋文が束にする程舞いこんで来て母達を困らせたものである。 母などにいわせると、私は大変やさしい所のある娘だったのだそうで、小さい時から、自分づきの女中達のことなど何くれとなくかばってやって、悪いことなどは、母に聞かせないようにようにと、小さい心を配っていたんだそうだ。 此頃になってもそういう気持が失せず、学校へ行く途中、可哀そうな野良猫や犬などを見つけると、毎日毎日何匹でも拾って来るので、家の中はそんな猫や犬で閉口したとよくその頃のことを母は話すことがある。 今でもそうだが、ことにこの「可哀そうだな」という感じは、殊更に深くって、これが私の性格の長所でもあり、弱点でもあると思っている。 私も喜んで一つ二つ手渡しているうちに何としても子供達がいとしくなり抱き上げたり、接吻したりしてやったのだったが、ナポリへついてから気がついて見ると、何とその子供達から、私の頭へ虱を貰っていたのだった。 と私は人からいわれたものである。 jp 本自叙伝が掲載された『婦人公論』昭和11年10月号 瀧廉太郎も求婚者の一人 さて、話を前へ戻そう。 其頃、毎日家に届けられる恋文の束はますます殖(ふ)えて来るし、どこそこの子息は自転車小町に夢中になって、ふらふら病になった、全く今時そんな話を聞いたら、おかしくて信じられないような話が、後から後からと出て来て、私を少なからず苦しめたものだ。 其間も、私が藤井と結婚しているのを知らないから、絶えず求婚者があって、まあ私はその頃随分人気者の一人に祭りあげられていたのだ。 音楽学校の助教授をしていた、瀧廉太郎氏、これはあの有名な「荒城の月」の作曲者だったが、そんな人も私のピアノの先生で、且(かつ)又求婚者の一人だった。 この瀧氏が生きていられたら、今頃は立派な作曲家の一人になっていられたろうと思うが、惜しいことに亡くなってしまわれた。 十八の夏休みには、藤井に呼ばれて支那の藤井の勤めている兵営へ出かけて行った。 此時は丁度新婚早々別れてしまったままではあり、私も決して嫌いな藤井ではなかったから、その官舎での新婚生活一ヵ月は、全くよそ目には余る程のむつまじいものだった。 藤井は兵隊を一人使って暮らしていたが、その兵隊が、とても奥さんとの間が甘くて見ていられないとこぼして歩いた位(ぐらい)で、近所隣の奥さん連の羨望の的になった程、藤井の可愛がり方は激しかった。 翌年の夏は藤井が支那から帰って小倉にいたので、また小倉に行くといった風で、卒業迄はそんな風に暮らしていて私も藤井も少しも不満を感じなかったのである。 日本で最初の御前演奏に臨んで 音楽学校では、私は予科の時から声楽が専門だった。 音楽学校時代に何といっても私の忘れられぬ思出は、昭憲皇太后の御前で、日本で最初の御前演奏をした時のことだった。 曲目はメンデルスゾーンのジエルサレム、ユンケル先生がオーケストラを指揮して下さった。 この時は、何しろ身に余る光栄ではあり、一世一代の晴(はれ)の舞台であるしするので、一週間も前からおかゆと玉子ばかり食べて喉を大切にしていた。 恐る恐る御見あげ申す 陛下は純白の御召物に、お胸には紫色のすみれの花束が匂っていらせられた。 歌い終って尊くも御拍手をいただき、いざ御退場という時、そこに立って御見送り申し上げていた私の方を、あの何ともいえぬ涼やかなお美しいお目で、じっと御覧あらせられた。 その時の私の身の引きしまるような深い感激。 この感激こそ自分は一生忘れまい。 この感激のためにこそ、私は音楽に自分の一生をささげようと、はじめて、深く深く心に決する所があった。 かしこくも其際、私は羽二重の着物を頂いたのであった。 それからは在学中にも拘わらず、方々の音楽会に出るようになった。 いつでも安藤幸子女史や、幸田延子女史と一緒だった。 日本にドイツ皇族のフォーヘン・ツオルレン殿下がいらっしゃった時も、英国のプリンス・コンノートがおいでになった時も、私達は御前演奏を申しあげ、いろいろ御賞めの言葉を頂いたり、御写真をいただいたりした。 こうして音楽学校の四年間を特待生でおし通し、二十一歳の時には学校を卒業して研究生となったが、其頃声楽をする人があまり無かったので、どこの音楽会でも私は引っぱりだこであった。 jp (右)音楽学校時代の環女史(誌面より) 「僕のために音楽をすててくれるかい」 丁度藤井は上京していて、麹町三番町に家を持っていたが、私は弟子を四十人も持っており、学校はあるし、音楽会はあるし、席のあたたまる暇もないという有様で、全く奥さんとしてはいい奥さんではなかったようである。 けれども私からいわせれば、藤井に対しては、自分としての出来るだけの愛情はかたむけたつもりで、まだ藤井が支那にいる頃、私はある時、一生懸命に藤井に送るセーターを編んでいた。 丁度そこへ私の親友の横山いと子さんが遊びに来ていたが、ふと自分で気がついて見ると、右の脇の下に大きなぐりぐりが出来ている。 「あら、おかしいわ」と思って考えて見ると、これはたしかにペストだと思ったのだ。 どういう訳でペストだと思ったのか知らないが、私は何匹も猫をかっていたからその猫からペストがうつったのだと思いこんでしまった。 「おいとさん、私はどう考えてもペストだわ、これから直ぐ病院へ入りますからね、どうぞ後々のことをお願いしますわ」 おいとさんも驚いてすぐ入院した方がいいという。 私は机に向って泣き乍ら藤井へこれがお別れになるかも知れない、という手紙を書き終えて、忙(あわ)てて病院へ出かけたが、実際はペストでも何でもなく、あまり熱心に藤井のセーターを編んだのでしこりが出来たのだいうので大笑いであった。 ところがその手紙を受けとった藤井は大笑いどころではなく、とるものもとりあえず。 支那から東京迄飛んで来たのである。 私はこんな風な女なのであった。 が、東京に於ける藤井との生活は、お互いに深く愛し合ってはいたけれど、私の音楽家としての生活が、藤井にはと角邪魔になり勝ちになって来た。 また、私自身にして見ても、折角油の乗り出した自分の芸術家としての道はすてられなかったし、かの御前演奏の直後心に深く誓ったこともあり、どうしても人の妻君としての生活と一致しないということが深く考えられるようになった。 と先ず藤井がそれをいい出したのであった。 だがどこまでも僕は女房としてお前を所有したいんだからね。 それとも僕のために音楽をすててくれるかい。 だが結極、お互いに求めるところが違うんだから、別れるより仕方があるまいよ。 私も泣く泣く藤井の言葉がうなづけたので伯母の家へ帰ったのだった。 それに自分自身を生かすためにはさけられない犠牲だった。 そしてお互いにたち切り難い愛着の絆をたち切ったのであった。 音楽学校の生徒には山田耕作も 私はすでに其時音楽学校の教授をしていた。 其頃の私の生徒の中には、山田耕作氏や、大塚淳氏などがいた。 今日も先生を泣かしてやろうじゃないかと皆で相談して私を困らせたものである。 或時、とうとう私は堪(たま)り兼ねて、「皆さんは何という悪い生徒でしょう、少しも私のいうことを聞かない。 私はもうこれ以上貴方方に教えようとは思わないから」といって、本当においおい泣き乍(なが)ら教員室にかけこんだものである。 さすがの生徒もこれには余程弱ったらしく、「先生これからはよい生徒になりますから」と謝りに来た。 成程それからは、私にとってまことによい生徒になった。 その山田氏も随分偉くなられたものだ。 私がこの一月最後の帰朝の時、マネージャーのことで少し問題が起った。 私の意志で片山という年少のマネージャーを使っているのが或は山田氏の気にいらなかったのかも知れない。 といったことだった。 とにかく、私の学校での生活は、極めて平穏に過ぎて行ったが、私生活に於ては、私はまたもや一つの事件に遭遇していた。 小さい行動の一つ一つが新聞に取りあげて 藤井と私の離婚問題は、れいれいしく新聞に書きたてられて、世の批判の的になっていた。 私が我がままで夫を夫として遇しないからこんな結果になったのだと見ている人達が多かったようである。 とにかく何をしても、私の小さい行動の一つ一つが新聞に取りあげられるので全く私はかなわないと思っていた。 私が藤井と別れたことを知ると、また新しい求婚者達が私をとりまき初めた。 その中に、三浦政太郎がいたのである。 私が、そもそも三浦政太郎と結婚したのはまことに、妙な理由からで、それは追々話すこととするが、三浦は性来非常に内気な人間で、私の遠い親戚に当っているから、藤井と結婚する前から、時々顔は合せていた。 その頃から深く私のことを思っていてくれたらしいが何しろ内気なのでそんなことは色にも出さず、病気になる程お腹の中では私を恋いしたい乍ら、むざむざと藤井にとられてしまったような訳だった。 で、私が藤井と別れた時にも、一番最初に手紙をよこしたのは三浦だった。 三浦は私より六つ年上で、今の総理大臣廣田弘毅氏とは一高の同級生だった。 三浦の手紙は実に厭世的なもので、貴女のことを考え乍ら、自分の身も魂も遠い海の中へ消えて行くなどといった、今にも死ぬような手紙をよこされて驚いたりしたこともある。 が、私は別れても、なかなか藤井のことは忘れられなかった。 藤井も同じ思いであるらしく、別れて間もなく、九段の靖国神社の前迄来てくれという手紙をよこした。 逢おうか逢うまいかと、散々考えた末、矢張引づられるように、母にはユンケル先生の所に行ってくるからと偽って、出かけて行った。 丁度雨がしとしと降っている晩で、藤井に逢うと、俺について来いという。 黙って後にしたがって行くと、一軒の小さな粋な作りの家に連れて行かれた。 それが待合というものだということは、中に入ってから解ったのだったが、座につくと、藤井もしめり勝ちに逢いたかったといった。 それに解ってくれるだろう。 嫌いで別れたんじゃないからね。 私だって同じことだわ。 貴方には音楽家の奥様は駄目なのよ。 だから思い切って別れた方がよかったわ。 おい、泣いているのかい。 私が音楽なんかしないで何でもない女だったらね、そう思って……。 恋人になろう。 それならいいだろう。 私はいいとも悪いとも答えられはしなかった。 只矢鱈(やたら)に悲しくなって、二人で泣いたのを覚えてる。 が、これがとうとう音楽学校をやめてしまわなければならない端緒となった。 何の御用ですかと私が出て見ると、貴女は昨夜、三浦政太郎氏と九段の待合へいらっしゃりはしませんかという。 私はとっさに驚きのあまり聲も出なかった。 と念をおす。 何なら記事を御覧になりますか。 「雨の夜の相合傘」というあくどい記事をつきつけていうのだ。 とにかくしばらく待って下さい、いづれ何分の御返事しますからといっておいて私は藤井の所へかけつけて相談した。 が、ただ困った困ったというばかりで、何のよい考えも浮かばなかった。 どういう訳で、三浦と誤認されたのか知らないが、ここは貴女が僕だったということを釈明して下さいと私は泣いて頼んだのであった。 それでなければ、三浦にあらぬ汚名を着せなければならないのだ。 三浦は当時帝大の三浦謹之助内科の助手をしていて、三浦博士の秘蔵弟子だった。 僕としても君にはすまないが、近近貰う女房迄きまっており、それに公職についている身だし、そんなことが世間に知れれば、自分の地位だってどうなるか解らないから、もう一度帰って御父さんに相談して見てくれないか。 というばかりだった。 話を聞いた父も青くなって、とにかく三浦を呼んで相談して見ようということになった。 御承知の通りあれは音楽家だからね、或(あるい)は妻としての責任も思うように果たせないかも知れない。 藤井との離婚も、つまりそれが原因なのだからね。 そこの所は理解して貰えるのだろうね。 僕はそんな無理解ではないつもりです。 環さんは十分音楽家としての天分をのばして貰いたいし、それだけの自由は認めるつもりです。 丁度僕も洋行したいところだし、環さんもドイツへ行くようにしたらどうでしょう。 jp 日本初演の歌劇「カヴァレリア・ルスチカナ」。 左が三浦環女史(誌面より) 第二の夫・三浦政太郎との結婚 父は三浦の心持にすっかり感激し、一日も早く結婚した方がいいじゃないかいうことで、私達はあたふたと結婚させられてしまったのである。 私達の結婚は三浦内科の同僚達を少なからず憤激させた模様で、三浦を誤る奴はアイツだというので、ぶんなぐってやるなどといきまく人達もあったそうだ。 が、とにかく無事に私達の結婚はすんで、三浦はその洋行費をこしらえるために、しばらくシンガポールの三井のゴム園に医者をすることになって、出発した。 例の新聞記事はもみ消しも効なく、とうとう出てしまった。 その半年ばかりの間、私の身辺はケンケンゴーゴーとしてうるさいこと許(ばか)りだったので、私は音楽学校の方は辞職してしまった。 例の千明秀作は、三浦がシンガポールへたって行ったのをよいことにして、私につきまとうようになった。 つきまとうといっても、ただつきまとうばかりではなく、またいい意味には、いろいろ後援もしてくれて、勿論その心の中にはどんな野望がひそんでいたのかは知らないが、いくらかは新聞記事に対する罪亡ぼしの気持ちもあったのだろう。 丁度伊太利からサルコリー氏が来朝したのを機会に、民間だけで歌劇団を成立するように、そのためには随分奔走してくれた。 私も腹を立て乍ら、その男をつい利用した形になっているが、とにかく、日本最初の歌劇のために働くということは、私にもうれしいことだった。 私は一晩五十圓の契約で二十五日間、どの外(ほか)に月給二百圓という、その頃としては法外の報酬で、帝劇に第一回オペラ上演の蓋をあけた。 これがまた当時の新劇運動の波に乗って、素晴らしい好成績で、次から次へと新しい歌劇を上演することができて、私達は、苦心の報いられたのを喜んだものである。 サルコリー氏と一緒に、「カバレリヤ・ルスチカナ」のサントツツアもやった。 またウエルクマイステル氏の作曲になる「春の女神」「シヤカと新妻」なども上演された。 續いて我が国最初の邦語歌劇「熊野(ゆや)」が上演された。 その時のメンバーは、熊野が私、宗盛は清水金太郎氏、侍女の朝顔が山川浦路氏、その他にも石井漠、伊藤道郎、南部邦彦、高出雅夫の諸氏も加わっていた。 いづれも素晴らしい成功だった。 「私は今、ある人間につきまとわれています」 が、一方そうした華やかなオペラのプリマドンナとしてデビューし乍ら、例の千明秀作は恰(あたか)もマネージャーの如く私につきまとい、どういうつもりかシンガポールの三浦のところへ手紙を出せというのだ。 もう貴方のことは少しも思っていない。 貴方と結婚の意思は毛頭ないから、そう思ってくれと書いて出せと強要するのだった。 とにかく動機は何でもあれ、日本の新しい歌劇建設のためには一方ならぬ恩人であるともいえる彼のことではあり、無下にもいい兼ねて、私は毎日のように苦しめられるのであった。 が、何で私は三浦にそんな手紙を書くことが出来よう。 あんなに私のために汚名を着、私のことを思いつめて、シンガポールへ行ってくれた三浦は、そんな手紙を読んだら、それこそ死んでしまうかも知れないのだ。 どうしたものかと、とつおいつ思案の末、私は思い切って三浦のところへ手紙を書いた。 私は今、ある人間につきまとわれています。 どうぞ直ぐ迎えにいらして下さい。 迎えにいらして下さらなければ、私はどうなってしまうか解りません。 私は思いあまってそんなことを書いて三浦に送ったと思う。 だが、事情は三浦の迎(むかえ)を待っていられない程切迫して来てしまった。 劇場に行けば楽屋に、楽屋を出れば、いつの間にか千明の呼んだ車屋が楽屋口に待っている。 家にかえれば家について来るという工合(ぐあい)にその男の執拗な手は、身動きのならない迄に、私の身辺にはりめぐらされてあった。 とうとう私は、私の腹心の女中を相手に、シンガポールへの逃亡を決心してしまった。 折角、やり出したオペラの仕事を途中で投げ出すのは惜しくないことはなかった。 だが、三浦のところへ行けばなんとかなる。 そこから自分は新しく勉強してふみ出そう。 小さい日本の土地にいて何になろう。 そうだ、自分はここで一つ大きく飛躍すべく神様から機会を與えられたのだろう。 丁度ウエルクマイステル先生も父に、私のドイツ行きをすすめて下さっていた。 それは一九一四年、世界大戦の始まる前で、私の長い外国生活は、最初の道をふみ出したのであった。 シンガポールへ、三浦のもとへ、私はかり立てられるうように、しかも人目を忍んでそっと日本を後にしたのであった。

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船頭可愛やの三浦環と山田耕筰のエピソードは実話なの?

三浦 環

三浦環と古関裕而 世紀のプリマドンナ 三浦環(たまき・ 1884〜1946)は、日本の生んだ最初の国際的オペラ歌手である。 彼女は明治37年、東京音楽学校を卒業した後、アメリカやヨーロッパに留学し、プッチーニの「蝶々夫人」の主役を演じて、その公演は2千回を越え、プッチーニからも理想的な「蝶々夫人」と絶賛を受け、世界的に名を馳せていた。 三浦環は明治 17年、公証人柴田孟甫の長女として東京で生まれた。 父が芸事を好んだこともあり、3歳の時から日本舞踊を習い、これが後年の蝶々夫人の演技に役立っている。 東京音楽学校ではピアノを滝廉太郎に学んだものの、声楽は本格的な教師がおらず、自分で工夫したと言われる。 環は音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治 40年には助教授になったが、音楽に生きることを決心し、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。 昭和6年、日本に帰国した環は、国内での演奏活動に従事し、多くの感動を与えたが、第2次世界大戦が始まるとその上演は禁止され昭和21年63歳で逝去している。 三浦の歌は、音程は確かではあったが、声量が少なかった。 しかし、演技力と舞台での魅力があったという。 平間文寿と三浦環 藤原義江とともに創成期の日本オペラ界で活躍した、福島市置賜町出身の平間文寿は、初めて三浦の演奏会を聴いた時の感動を次のように述べている。 「環さんはベルカント(注)そのものであった。 聴衆たちは、いまだかつて与えられたこともない、あの素晴らしい歌唱に接して、すっかり熱狂してしまい、会が果てた後も、皆我を忘れて、彼女の自動車を取り巻いて拍手を続け、動こうともしなかった。 私も類もまれな彼女の芸術に接し、驚愕し、興奮し、うち砕かれて、呆然として、なす術さえも知らなかった。 」(平間文寿著『歌の渚』以下同じ)と最大級の賛辞で褒め称えた。 その後直ちに平間は面会を求め、運良く環に会うことができ、彼女の前で歌唱を披露した。 環は「始終微笑を湛えて、私の歌唱に満足な意を示しながら」すぐにイタリアへの紹介の手紙を書いてくれた。 そして平間は環の印象を、「あれだけの成功を勝ち得ながら、少しの衒(てら)いや気取りのない、人なつっこいプリマドンナ」と表現し、すっかり魅了されていった。 私は思った。 彼女ほど優れた技巧を把握し、曲の神髄に触れ得た歌手が、かつても今も、我が国にいただろうかと。 」とまで言い切っている。 また平間は、環と3度ステージを共にしていた。 そのうち2回は二重唱を歌うという「得難き好機と光栄を得て、私の感激はすくないものではなかった」と述懐している。 三浦の死後、平間は次のような哀悼歌をつくり、三浦の死を悼んだ。 写真 三浦環『世界伝記大事典5』より転載 聴くごとに新たなる泪とめあえぬ環の蝶々空しきかはや 滾(たぎ)り立ち求めてやまぬ君なれば臥してなほ譜は読み継ぎしといふ ( 注) ベルカントとは、イタリア語で美しい歌(唱)の意で、劇的な表現やロマン的な抒情よりも声音そのものの美しさ、流麗な表現に主眼をおく。 その発声の自然な美しさなどは、声楽技法の理想的な一つの典型とされている。 (『万有百科大事典:音楽・演劇』) 古関と三浦 古関と三浦はどのような接点があったのであろうか。 古関自伝『鐘よ 鳴り響け』では次のように回顧している。 『船頭可愛や』が大流行していた頃、ヨーロッパで「お蝶夫人」上演などで活躍していた三浦環女史が帰国された。 (三浦さんは)コロムビア専属声楽家なので、コロムビア主催のレセプションが盛大に開催された。 たまたま、ビクターからコロムビアに入社して間もない西條条八十氏が出席し、三浦女史と盛んに話しておられた。 やがて三浦女史のスピーチになった時、その終わり頃に彼女はこんなことを言った。 「実は私、今まで西條先生を女性の詩人で、西条ハナさんだとばかり思っていましたの!」 これには参会者一同大爆笑。 さすが高名な西條先生も苦笑しておられた。 飾らぬ率直な三浦女史の一面が感じられた。 三浦の歌った古関メロディー その後女史は、偶然「船頭可愛や」を聞いて、「これは素晴らしい。 ぜひ私も歌ってレコードに入れたい」との申し込みがあり、私は驚くと同時に欣喜雀躍。 さっそくその吹き込みに立ち合った。 美声の上に、エキスプレッションの巧妙なことは、さすがに世界的歌手だと思った。 これは、勿論青盤レコードになった。 当時コロムビアでは、外国の著名な芸術家のレコードのみ青いラベルを貼り、青盤レコードと呼んでいた。 日本人の青盤芸術家は、ごくわずかであった。 その後私は、三浦女史に「月のバルカローラ」という、コロラチュラ・ソプラノにふさわしい歌を作曲して献呈したところ、これも女史が吹き込んでレコードになった。 私の青盤レコードは二枚のみだが、その頃コロムピア芸術家としては最高の名誉であった。 (写真 品川の妙国寺にある「船頭可愛や」歌碑 歌手音丸直筆) 相撲観戦 三浦環さんと言えばこんな思い出がある。 ある日、エドワード氏が、 「古関さん、国技館の相撲の切符が二枚あります。 奥様とどうぞ。 三浦環さんもいらっしゃいます」と枡席の切符を二枚くれた。 妻は少女時代から環さんのファンで、彼女自身声楽の勉強もしていたので大喜びであった。 さて当日行ってみると、環女史が巨体の上、弟子のEさんも肥っているので大変であった。 遅れて、当時のバスの歌手下八川圭祐氏が来られたので、私は仕方なく妻を自分のひざの上に乗せて観戦していた。 すると環女史はしきりに振り返って、チラリチラリ私たち夫婦を気にして見る。 妻はその視線を気にしていたが、私は夢中で取り組みを観ていた。 妻は今でもその時のことを思い出して言う。 「あの時の環さんの表情、羨望とも嫉妬ともつかぬ妙な顔でチラリチラリ、いつまでも心が若いのね。 やはり大芸術家は違うわねェ。 あの時、環さんはみんなにお寿司をご馳走してくださったわ。 今は環さんも亡くなられたし、Eさんは緑内障で盲人になり、草津の療養所にいらっしゃるんですもの。 少しずつ時は移り変わっているんですね」(以上古関自伝『鐘よ 鳴り響け』主婦の友社刊) 「月のバルカロール」のこと 三浦の歌った「月のバルカロール」とはどのような歌曲であろうか。 コロムビアの古関裕而全集等で紹介しよう。 月のバルカロール 服部竜太郎作詩/奥山貞吉浦曲 月影青い 海の夜 渚のほとりに 佇(たたず)めば 袂(たもと)を払う 南風 寄せては返す 波の音 汐のかおりに 衣さえぬれて 喜びにいざ 讃うるは海の歌 風に寄する歌声は 歌声はひろがりて はてしもなく 時雨(しぐれ)たあとの 月影は 光もひときわ 冴えわたり 小波(さざなみ)砕けて 光る岩 たまさか躍る 白い魚 彼の楫音(かじおと)に 遠音にひびく 喜びにいざ 讃うるは夜の歌 夜空わたる歌声は 歌声はひろがりて はてしもなく ( 3分34秒) 「月のバルカロール」解説 「船頭可愛いや」を三浦環が吹込んでくれたのに感激、作曲者は三浦女史にコロラチュラ・ソプラノにふさわしい「月のバルカロール」を作曲、献呈した。 古関裕而の 2枚日の青盤として昭和14年9月8日吹込み、12月15日発売された。 その後タイトルが「月のバルカローラ」と改められている。 昭和55年、作曲者の作曲家生活50周年記念のLP3枚組の全集が編まれたが、そこでこの曲を斉藤昌子が見事に復唱した。 バルカローラはイタリア語で「船唄」の意で、もとはベェネツィアのゴンドラを漕ぐ船頭が漕ぎながら歌う船歌から出たことば。 曲はゆっくりしたテンポの六拍子や十二拍子が使われ、舟が波にゆられる感じを表している。 また伴奏部には、単調なリズムの分散和音がよく使われている。 (日本コロムビア株式会社 「コンパクト・ディスク・古関裕而全集」) 参考文献 古関自伝『鐘よ 鳴り響け』主婦の友社刊 日本コロムビア株式会社 「コンパクト・ディスク・古関裕而全集」 平間文寿著『歌の渚』.

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三浦環の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介

三浦 環

島田歌穂さんの「ミュージカル 蝶々さん」を観て以来、 蝶々さんはどんな女性だったのか、気になりました。 オペラの「蝶々夫人」のせいで 蝶々さんが実際とは違った形で 伝わってしまったと述懐(後悔)するコレル夫人。 (夫人が弟(新聞記者)に話したことが記事となり、 評判になったことでオペラ「蝶々夫人」が作られたのですが、 「男の人のお人形さん」のように描かれたことを悔いていました。 武士の娘として毅然としている蝶を好ましく思っていただけに、 夫人は、自分が弟に話さなけば良かった、蝶に申し訳ない、 と自分を責めていたのです。 ) コレル夫人を演じる剣さんの熱演が印象にが強くて。 作曲者のプッチーニが 「私の夢を実現してくれた」 と称賛した環の蝶々夫人。 その所作は幼い頃習った日舞の賜物。 早くから才能を表していた彼女。 歌を教えてくれた先生は、 上野の音楽学校への入学を強く勧めるが、 「女に教育は不要」との時代ゆえ、父から猛反対される。 「養子を取るなら、進学してもよい」という 父とのかけひきにより 東京音楽学校への入学を果たす。 後に、その東京音楽学校で教鞭を取ることになるから 彼女の選択は間違っていなかったということになる。 市川森一さんの著書「蝶々さん」でも 蝶は進学を希望し、 そのために貸座敷の養女になるから、 二人の強い想いにはどこか通ずるものがある。 ただ、ちがうのは 蝶は義理の親までも亡くし 進学を断念せざるを得ないが、 環は一念を貫いた。 専業主婦を望む最初の夫と離婚してまでも、 歌うことを選ぶ。 当時珍しかった自転車通学をし、 たくさんの見物人が集まり 「自転車美人」という言葉さえ生まれたそう。 華やかな存在の環。 オペラ歌手として稀有であり、 目立つことで噂が独り歩きした環。 離婚後は、プロポーズが殺到したという魅力的な彼女は、 彼女の才能を理解してくれた男性と再婚し、海外へ。 そして第一人者である指揮者サー・ヘンリー・ウッドに対面が叶った。 彼女の歌を聞いたウッドはこう言った。 「あなたは完全な美しい素質と音楽の技術を持っています。 私にはあなたのようなほとんど完成した声楽家に歌を教える力はありません」 「蝶々夫人」を演じる機会を得た彼女は 公演まで1ヶ月しかないにもかかわらず、 362ページにもわたる楽譜を覚え、 空襲のさなかのロンドンで熱演し、 真のアーティストとして称賛された。 彼女の活躍ぶりを読んでいて 同じ日本人として誇らしくなる。 たとえばシカゴでは 彼女のオペラを聴き終り、感極まった婦人から 「ピンカートンのような男は アメリカの男性のうち例外です。 多くのアメリカ男性は あんな悪いことはいたしませんから 誤解しないでください」 と涙を拭き拭き、謝られました。 などというエピソードも。 そして、 環は36歳の時に プッチーニから生涯忘れられない言葉を聞く。 「イタリアはもちろん、世界のプリマドンナが大勢 毎晩のように日傘を持ってステージを歩き、歌いますが、 みんな私の理想とする蝶々夫人はやってくれませんでした。 プリマドンナは、みんな 自尊心を持って自分の歌だけ聴かせようとして 一向に私の蝶々さんの『 ほんとうの気持ち 』を 理解してはくれませんでした。 だがマダム三浦、 あなたの蝶々さんは 一幕では15歳の子どもらしい蝶々さん 第二幕第一場では母の愛と夫の帰りを待つ若い妻の愛情を、 二場では子どもと別れて自殺する日本人夫人の貞淑の悲劇を 驚嘆するばかりにドラマティックに演りました。 私が心に描く幻のバタフライが舞台に現れたと思いました」 プッチーニが生み出した多くの作品のヒロインのうち、 ことのほか蝶々夫人をお気にいりだったそうだから、 環とプッチーニにとってこんな幸福なめぐり合わせは なかっただろう。 それほど評判をとった「蝶々夫人」だが、 戦争が激しくなり帰国。 あれほど海外では受け入れられていたのに 当時の日本では、 「日本人女性が、外国人に弄ばれて自殺するとは国辱」 という理由で上演が許されなくなった。 「歌うことが使命」と 晩年まで歌い続けた彼女には、 素敵なエピソードが多い。 2001回目の公演の場所が歌舞伎座。 戦争中、慰問に行った際、 軍歌を歌わないことを憲兵隊にとがめられても 「オペラ歌手ですから」と 毅然としたした態度を変えなかったこと。 (淡谷のりこさんも、モンペを嫌がり、 きちんと化粧して歌ったという逸話が 残っていましたね。 確か…) 5時起きして、必ず発声練習をしていた環。 病に伏した時、見まいに来たテノール歌手の藤原義江に 「天国で歌えるように、ドビュッシーを練習しているのよ」 と環が言ったこと(藤原は涙が止まらなかったそう) そして、死後、病理解剖に立ち会った教授の所見 「光沢といい色彩、形態共に実によく整っていて 十分発達した若い人の咽喉像そのものである」 咽喉年齢は18歳。 自堕落な生活をしていたら、 決して保てない美しい咽喉だそうだ。 残された写真は小柄で可愛らしい人。 この人のどこに、これほどの強い意志があったのだろう。 天真爛漫で奔放な性格のため、 日本ではスキャンダラスな印象があり ほんとうに気の毒だったけれど(らしいけれど) 真実の三浦環の偉大さを知らずにいたなんて、 もったいないことだ。 会いたい人!叶うことなら。 (この本にはクーデンホーフ光子さんのことも書いてあった。 残念ながらゲランの香水「ミツコ」は 彼女をイメージしたものではないらしい。 ミツコの人生もまたドラマティックであり、 周囲に日本人がいない中での彼女の苦労ははかりしれない) 環もミツコも壮絶な人生なのに、 試練を超えるたびに輝きが増している。 その姿は私達に希望を与えてくれる。 願わくば、遠い日の彼女の力になりたい。 友として、あるいは母や姉として、そばで支えたい。 もちろん、その気持ちを彼女達に届ける術(すべ)はないけれど。 だから、私達も次へバトンを渡さないといけないわけだ。 と、いつもながら取りとめもなく… 三浦環(みうら たまき 1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日 癌のため、終戦の翌年没).

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