僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある。 英雄伝説 軌跡シリーズの登場人物

ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne 関根秀雄訳 モンテーニュ随想録 ESSAIS DE MONTAIGNE 第一巻

僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある

このエッセーは開巻第一に置かれているけれども、それは決して最初期に属するからではない。 むしろ「人間というものは変化してやまないものだ」という意見が述べられているからであろう。 こういう人間観は、すべての時期を通じてモンテーニュのいだいた主要な思想の一つであって、第二巻の第三十七章、すなわち一五八〇年版『随想録』の最終章にも述べられていること、また第二巻第一章も同じ思想で充満していること、を思いあわせるべきである。 モンテーニュは『随想録』中の各章を特別の方針によらずに漫然とたばねたもの、すなわち fagotage だと言っているけれども、全三巻を注意して読んで見ると、案外各エッセーの排列には著者の細かい考慮が払われているように思う。 この点については第一巻第二十八章冒頭のパラグラフはきわめて暗示的である。 同章の解説と註を参照せられたい。 そこで、『随想録』全体が一貫した一つの目的のために書かれていることがいっそうよく理解される。 (a)かねて我々に怨みをいだいていた者どもが、こんどこそ 復讐 ( ふくしゅう )の思いをとげようと我々を完全に手のうちに握った時、彼らの心を和らげる一番普通の方法は、降参して彼らの憐れみや同情に訴えることである。 けれども反抗や勇気も、それとは全く反対の方法だが、時に同様の結果をもたらした。 ウェールズ公エドワードは、長いことわがギュイエンヌ州を統治された天性きわめて高邁なお方 *であったが、かねてリモージュ 人 ( びと )に対してきわめて深い遺恨をもっておられたので、彼らの都市を攻めとられたときは、いくら人民が泣き叫んでも、屠所にひいてゆかれる老幼婦女がこもごも彼の足下にひれ伏してお慈悲を叫んでも、ひた押しにおして市中に侵入せられたのであったが、ふとそこにただ三人のフランスの貴族が、信じられない程の大胆さで、彼の勝ちほこった大軍をささえているのにおん眼をとめられた。 そしてその顕著な武勇の程に深く感心あそばされて、始めて憤怒のほこさきを和らげられ、その三人をはじめとして市民全体をおゆるしになった。 * 英王エドワード三世の子、黒太子と呼ばれた人。 モンテーニュはこの話をフロワッサールの中で読んだのであろう。 エペイロスの王スカンデルベルグが、部下の一兵士を 亡 ( な )きものにしようとこれをつけねらわれると、その兵士は、はじめ卑下と愁訴の限りをつくして主君の怒りを 鎮 ( しず )めようとしたが、ついにせっぱつまって、剣をとって王を待つ決心をした。 彼のこの決心は主君の怒りをぴたりととめた。 この男にもこのように尊い決意があったのかと思し召されて彼をゆるされたのである。 この実例は別様の解釈をもゆるすかも知れないが、そのような説をたてる者どもは、この王様の驚くべき武勇のほどを読んだことがないにきまっている。 皇帝コンラート三世は、バヴァリア公ゲルフェンを包囲した時、どんなに卑下した条件をもち出されてもなかなかおゆるしにならなかった。 ただやっとのことで、公と共に城中に囲まれていた貴婦人たちがその名誉を犯されることなく、かちはだしで、みずからその身に負いうるものだけをもって、脱出することをお許しになった。 ところが彼女らは、けなげなことにも、その肩の上に、その夫と、その子と、はては公をさえ、にないゆこうと思い定めた。 皇帝は、その勇気のしおらしさをみそなわして深くお喜びになり、感涙をさえ催された。 そして、公に対するそれまでのやる方ない遺恨を和らげられた。 すなわち、それからというものは、公をも、その身内の人々をもやさしくあしらわれた。 (b)これら二つの方法は、いずれも、わたしが好んでとるところである。 まったくわたしは、慈悲にも寛恕にも、どちらに対してもはなはだ気がよわいのである。 だがわたしの考えるところでは、やはり、どちらかといえば、わたしは人に感心するよりはむしろ同情するように、生れついているらしい。 だがこの憐れみの感情は、ストア学者にとっては悪い感情になっている。 彼らは言う。 「悲しんでいる人たちは助けてやらなければならないが、一緒になってくずおれたり嘆いたりしてはならない」と。 (a)さて以上の実例はこの場合に最も適切なものだと思う。 何となれば、今あげた人々は以上二つの方法のいずれをとるかと迫られた時、一方には頑として抵抗しながら、またもう一方にも降参しているからだ。 あるいはこう言えるかも知れない。 「同情の前にその意志をまげるのは、とかく人を信じやすく、お人よしで、柔弱であるせいである。 だから比較的弱い性質の人々、例えば女子供や俗衆などが、そうなりやすい。 ところがそうではなくて、涙や嘆願などには目もくれず、ただ勇気の聖なる姿を尊敬して始めて降参するのこそ、雄々しく粘り強い力を愛し尊ぶ不撓不屈な心のいたすところである」と。 けれどもそれ程に太っ腹でない人々においても、驚嘆の心が同じ結果を産み出すことがある。 例えばテーバイの民がそうだ。 彼らはその大将たちがその任期を越えて職権を行ったからとて、彼らを裁判にかけ死刑にしようとしたが、そういう無礼な抗議の下におめおめと屈伏してただ哀訴嘆願のみをこととしたペロピダスの方は、なかなかゆるさなかった。 かえってエパメイノンダスの方が堂々と自分の行為を説明し、自信満々、 (c)威張って (a)人民の抗議を責めたものだから、人民は投票をする勇気さえなくしてしまった。 そして群衆は大いにこの人の気宇高大なのを賞め 称 ( たた )えながら解散した。 (c)大ディオニュシオスは、長いこと困難に困難を重ねたのち漸くレギオム市を奪取するや、そしてそこに、この都市をかくまで頑強に防衛した義烈の大将フュトンを生捕るや、これを復讐の血祭りにあげて人々への見せしめにしようと思い立った。 彼はまずフュトンに向って、どのようにして前の日に、彼の息子を始め一族の者どもをことごとく溺死させたかを語った。 するとフュトンはただ一言、「彼らはわたしよりも一日だけ幸福であった」と答えた。 次にディオニュシオスは、獄卒に命じて彼の衣服を 剥 ( は )ぎ縄をうたせ、はずかしくもむごたらしくこれを 鞭 ( むち )うたせながら、しかも口汚なくこれを罵り 辱 ( はずか )しめながら、市中を引きずり廻らせた。 それでもフュトンは泰然自若、きっと 面 ( おもて )をふり仰いで、かえって声も高らかに、こうして祖国を暴君の手に委ねないために命を捨てることは名誉であり光栄である、かえってお前たちの方にこそ近く神々の罰があたるであろうと、ディオニュシオスを威嚇した。 ディオニュシオスは部下の多くの者どもの眼の中に、この敗将が彼らの大将と彼らの勝利とを罵る長広舌に憤るどころか、かえってこの人の稀代の豪勇に威圧されて士気ますますおとろえ、まさにフュトンを獄卒の手から奪いかえそうとする気勢さえあるのを見てとったので、あわててこの迫害を中止し、ひそかに彼を海に送って溺死させた。 (a)実に人間くらい驚くほど 空 ( くう )で・まちまちな・そして変りやすい・ものはない *。 その上に一定不変の判断をうちたてることは容易でない。 あのとおりポンペイウスは、マメルティニ 人 ( びと )に対して大変怒っていたのに、一市民ゼノンが公衆の 過 ( あやま )ちを一身に引きうけ独り刑罰をこうむろうと願い出たその勇と義とに感じて、市民全体をゆるした。 ところが、ス ラの客は、ペルシア市において同じような徳を行ったのに、自分自身のためにも、ほかの人々のためにも、何のとくもしなかった。 しばしば引用される有名な句で、第二巻第十章にも ondoyantet divers という語はでてくる。 なおこの「まちまちで変りやすい」という人間の一般的特質を、モンテーニュは自己のうちにもしばしば認めているけれど、彼自らはそう自覚していただけに、人間として可能な限りにおいて、相当よくこの病弊を克服していると思う。 すなわちこの句その他から推して、モンテーニュその人までも無定見でつかまえ所がない人であったと考えるのは浅はかである。 第三巻第二章における彼の告白およびその註参照。 『随想録』の中にはいろいろな矛盾があるが、それはそれぞれに理由動機があってのことで(巻頭所載の解説にも述べるとおりである)、モンテーニュその人は常に彼の主要な幾つかの考え方の下に統一されている。 (b)それどころか、わたしの始めの実例とは全くあべこべの話もある。 最も豪胆で敗者に対してはきわめて寛仁であったあのアレクサンドロスは、多大の困難ののちやっとのことでガザ市に攻め入り、守将ベティスとめぐりあった。 この人の武勇についてはすでにその攻囲最中にもその驚くべき証拠をみせられていたが、その時は、ただ独りで、部下たちには見すてられ、着ている 鎧 ( よろい )はうちちぎられて、全身血汐と傷とにおおわれながら、なおかつ、四方から切ってかかる多くのマケドニア人を相手に奮戦していたのである。 アレクサンドロスは、自分の勝利がこれほどまでに高くつくのかと思うと口惜しくて(まったく数々の損害をこうむったばかりでなく、おのれ自らさえ二つのなまなましい手傷を負わされていたのである)、ベティスに向ってこう呼ばわった。 お前が思うとおりには死なせはせぬぞ、ベティスよ。 捕虜に対して案じ出される限りのあらゆる責苦をくらわせてやるからそう思え と。 すると相手は、ただに平気なばかりでなく、きっとした屈しない顔つきで、この威嚇を黙殺した。 そこでアレクサンドロスは、この不敵で強情な沈黙を見て、 どうしても膝を曲げないか。 どうしても泣き声をあげないか。 よし、お前の無口をたたき破って見せるぞ。 言葉を吐かせることはできなくても、せめて呻き声は吐かせて見せるぞ と叫ぶや、その憤怒を狂暴にかえ、彼の 踵 ( かかと )になわを通し、これを車の後につなぐことを命じ、生きながら彼を引きずりまわし、ついに五体微塵にしたのである。 そもそも彼にとって豪胆はあまりにも普通のことなので、これを賞賛する気がなくこれを尊重もしなかったのであろうか。 (c)それともまた、これを専ら自分だけのものと考えていたので、これがそんなに高度に他人のなかにもあるのを見て、嫉妬の感情から来る不快を禁じえなかったのであろうか。 あるいはまた、彼の生れつきの憤怒の勢いがあまりにつよく、これをさえぎり止めることができなかったのであろうか。 ほんとうにそれが制御できるものであったのなら、あのテーバイ市を奪い取り踏みにじった際にも、あの勇敢な人々が力尽きて国家防衛の手だてを失いむざんにも剣に貫かれるのを見たら、やはり彼の怒りはおさえることができたはずである。 まったく、この時もゆうに六千人の人が殺されたのであるが、ただの一人として逃げたり命乞いをしたりしたものはなかったのである。 否むしろ、町の中のあっちでもこっちでも、かち誇った敵に挑みかかり、ひたすら名誉ある死を得ようと自ら求めたのである。 実際、これ程のいたでをこうむりながら、その最後の息を吐きつくすまで復讐の志をすてなかったものは、かつてなかった。 死にもの狂いの 刃 ( やいば )をふるって自分の死を誰とでもよいから敵と刺しちがえることによって慰めようとしたものは、かつてなかった。 だのに、この彼らの悲愴な武勇は、ついにすこしも憐れみをそそがれなかった。 そして一日の長さも、アレクサンドロスの復讐心を満足させるのに足りなかった。 この虐殺は、血汐の最後の一滴まで続けられた。 そして武器を帯びない老幼婦女の前でやっと止ったが、それだって、実は、彼らの中から三万の奴隷を得ようがためであったのだ *。 なおこの章に述べられている人間観は、奇しくも 老 ( ろうたん )荘周のそれと完全に一致している。 『荘子』在宥篇第十一に「 人 ( ひと )の 心 ( こころ )は 排 ( おさ )うれば 下 ( くだ )り、 進 ( すす )むれば 上 ( のぼ )り、 上下 ( じょうげ )して 囚殺 ( しゅうさつ )す。 …… 其 ( そ )の 熱 ( ねつ )するや 焦火 ( しょうか )、 其 ( そ )の 寒 ( かん )なるや 凝冰 ( ぎょうひょう )、 其 ( そ )の 疾 ( はや )きこと 俛仰 ( ふぎょう )の 間 ( かん )にして 再 ( ふたた )び 四海 ( しかい )の 外 ( そと )を 撫 ( おお )う。 [#改ページ] 本章から第十八章にいたる一連のエッセーは、一五七二年頃にモンテーニュが読んだグイッチャルディーニとかブーシェとかデュ・ベレとかいう人たちの歴史記録の類が動機として生れた「書籍的」随想の部に入る。 この種のエッセーは当時流行したいわゆる le ons すなわち説話集(ほぼ『今昔物語』『古今著聞集』の類)と大同小異で、まだモンテーニュ独特なものをもっていないと言われる。 彼が自己について語っている部分は、 (b) (c)の標識によってわかるように一五八〇年以後に書き加えられたものであるが、それにしてもモンテーニュの心理学的関心、心理解剖の精緻は、これら初期の短篇の中にも十分現われている。 (b)わたしは最もこの感情 *を免れている者の一人である。 (c)そして、これを愛しも尊びもしない。 だが世間の人は、これをまるで品質証明のレッテルみたいに、特別に有難がって珍重している。 人々はこれでもって知恵と徳と良心とを装わせているが、ばかばかしい変なお飾りもあったもんだ。 イタリア人はこれに悪心という名前 **をつけたが、この方がずっと似合っている。 まったくそれは、常に害のある、常に狂った、そしていわば常に卑怯で下賤な、性質なのである。 ストア学者は彼らの賢人にこの感情を禁じている。 ** イタリア語の tristezza は邪悪という意味をももつ。 ところで (a)こんな物語がある。 「エジプト王プサムメニトゥスは、ペルシア王カンビュセスに負けて捕われの身となった時、自分の娘が下女の装いをさせられて水みにやられるのを目の前に見たが、友人たちは皆して彼の周囲で泣き悲しんだのに、彼独りはじっと足もとを見つめたまま一声も漏らさなかった。 それからまもなく彼の息子が死刑の場につれてゆかれるところを見ても、やはり同じ態度で我慢した。 ところが彼の親しい友人の一人が、多くの囚人の間に交って連れてゆかれるところを見ると、そこで始めてわれとわが頭をうち叩き、限りない悲しみを現わした」と。 この事は、人がつい先頃我々の宮様 *のお一人の御身の上に見たところにくらべることができよう。 そのお方はトレントにあって、長兄の宮の・しかも御家の柱石であり栄誉でもある長兄の宮の・ 訃 ( ふ )をきこし召され、やがてまたまもなくその第二の希望であった次兄の宮の訃にあい給うたが、そしてよくこの二つの不幸に人の模範ともしたいほどの忍耐をもって堪えられたが、それから数日ののちに御家臣の一人がふと他界すると、とうとうこの最後の出来事にお負けになった。 そしてそれまでの我慢をわすれて、深い悲嘆と哀悼に沈ませられた。 そこで或る人たちは、彼はこの最後の打撃にあって始めて心を 衝 ( つ )かれたのだと結論した。 けれども本当は、それまでに既に悲哀にみちあふれておられたればこそ、このごくわずかな増量が忍耐の堤をおし切ったのである。 始めの物語も同様に判断することができよう(と、このわたしは思うのであるが)、ただそこにはこうつけ加えられている。 カンビュセスが、プサムメニトゥスに向って、なぜ令息や令嬢の不幸には動かされなかったのに、一人の友のそれにあのように堪えられなかったのか、とたずねたところ、彼は答えて、それは、この最後の悲しみだけがどうやら涙の中に表現できたからで、前の二つに至っては、どんな表現の道をも遙かに越えていたのである と。 * カルディナル・ド・ロレーヌと言われたシャルル・ド・ギュイズをさす。 次に、長兄とあるのは、一五六三年にオルレアンの攻囲の際刺客ポルトロ・ド・メレに暗殺されたフランソワ・ド・ギュイズのこと。 更に次兄とあるのは、それからわずか十日後に死んだ僧院長クリュニーをさしている。 おそらくはこれにちなんで、あの古代の画家の創意が想い起されるだろう。 彼はイフィゲニア犠牲の図の中に、これに臨んだ人たちの悲しみを、彼らの各々がこの純潔な美しい少女の死に寄せた関心の度に応じて表現しなければならなかったのであるが、いよいよ少女の父を描く段になった時は、もうその芸術の奥の手さえも使い尽していたので、やむなくこれを顔を掩った姿に描いたのである。 あたかもどんな顔かたちもこのような極度の悲哀を表現するには足りないかのように。 同じ理由で詩人たちは、先に七人の息子を失い続いてまた七人の娘を失ったあの不幸な母ニオベを、度重なる不幸のために化して岩となった、 (ウェルギリウス) (a)息子がカンナエの負け軍から生きて帰ったのを見て狂喜のあまり死んだローマの婦人、喜びのために落命したソフォクレスおよび烈王ディオニュシオス、ローマの元老院から与えられた名誉の知らせを読んでコルシカで死んだタルナのほかに、我々は、当世紀においても、法王レオ十世が、かねてから熱望していたミラノ奪取の報知をえてひどく喜び、そのために発熱して逝去されたのを知っている。 それから、人間の力弱さの最も顕著な実例として古人に特筆されたところによると、弁証家ディオドロスは、自分の学校で、衆人の前で自分に提出された議論に答えられなかった恥ずかしさのあまりに、その場で頓死したそうだ。 (b)わたしはこのような烈しい感情にはあまり捉えられない。 わたしは生れつき鈍い感受性 *を持っている。 しかもそれを毎日理性のはたらきによって硬く厚くしている。 本章こそ、当時流行の説話集 le ons の域を脱しない平凡なエッセーが、後年の加筆によってだんだん面白いものに変化して行った好い実例とも見られるが、同時にまたそれらの増加のために散漫になり統一を失った場合の標本とも言えよう。 ここに「我々を越えて」au del de nous と言っているのは chez nous, en nous に対して言ったので、「現在の我々を追いこして」という意味であるから、当然現世を越えた「彼岸」「あの世」という意味も含まれている。 (b)人間が常に未来のものごとを追い求めるのを咎め、我々に「現世の幸福をしっかり捉えよ。 そしてその中に安住せよ。 我々には未来のことがらをとらえることはできないのだ。 それは過ぎ去ったことがつかまえられない以上であるぞ」と教える人々は、いかにも人間の誤りの最も普通なものを衝いているが、きっとそういう人たちは、自然がその仕事を続けてゆくために我々に行わせることまでも、あえて誤りと呼びたいのであろう。 (c)自然は我々が知ることよりも活動することの方をいっそう熱望して、わざと我々の心の中に、他のいろいろな思想とともに、こういう誤った思想までも賦与してくれたのに。 (b)我々は決して我々の許にいない。 常にそれを越えている。 心配・欲望・期待は、我々を未来に向って追いやり、我々から現にあるところのものに対する感覚と考察とを奪って、やがてそれがなるであろうところのものに、いや我々がいなくなる後のことにまで、かかずらわせる。 (c) 未来 *を思いわずらう心は不幸なり (セネカ)。 * ここに言う未来は勿論来世のこと、死後の問題を意味している。 モンテーニュの根本的な考えの一つが、この短い引用句の中にそっとほのめかされている。 それは本巻第十一章その他に、これからしばしば述べられることである。 「汝の事を行い、汝自らを知れ」という偉大な 箴言 ( しんげん )は、プラトンの中にしばしば挙げられている。 その二つの部分は、合して我々の義務の全体を包み、それぞれがまた同じようにもう一方の部分を含む。 自分のことを行わなければならない者は、「自己第一の修業は、自分が何であるか、何が自分に適当であるか、を知ることだ」と悟るであろう。 それから、己れ自らを知る者は、もう他人のことと自分のこととを混同しない。 何事よりも先に自分を愛し自分をやしなう。 余計な仕業や無益な考えや企てを捨てる。 愚者は、これにその欲するがままをゆるすもなお満足せざるべし。 されど賢者は、現にあるものに満足し、決して自らに不満をもつことなし (キケロ)。 エピクロスによれば、未来の洞察と用意とがなくても、人は賢者になれるのだ。 (b)死者に関するもろもろの法規のうち、最も動かしえないもののようにわたしに思われるのは、「帝王たちの行為はその死後において審判されなければならない」というそれである。 彼らは法規と同列のものであって、その主人ではない。 正義がさきに彼らの頭上に加え得なかったものを、あとから彼らの評判の上に、彼らの後継者の財宝の上に、すなわち我々がしばしば生命よりもだいじにするそれらのものの上に、加えるのは当然である。 実にこの習慣は、これが守られている国々に非常な便益をもたらすばかりでなく、すべての善王たちがむしろ乞い願うところである。 (c)彼ら善王は、悪王の記憶が彼らのもののように考えられてはやりきれないからだ。 我々は臣従と恭順とを等しくすべての王に負う。 まったくそれらは彼らの官職に属するのである。 けれども、尊敬は、愛慕と共に、ただ彼らの徳に対してだけ捧げればいいのだ。 国家の秩序のために、我慢してふさわしくない王に堪えよう。 彼らの不徳をかくしてやろう。 彼らの権威が我々の支持を必要とする限りは、我々の勧告でもってその心ない一挙一動を助けてやろう。 だが我々の主従関係がひとたび終ったら、正義に対し、また我々の自由に対して、我々のいつわらぬ感情の表出を拒むのは間違っている。 特に主君の欠点をよく知っていながらこれに 恭 ( うやうや )しく忠実に仕えた忠臣の光栄を、その人に与えることを拒むのは間違っている。 そんなことをしては、後世からそういう有益な模範を奪うことになる。 それから、個人的な恩義があるからといって、賞めるべきではない王の記憶を不正に擁護する人々は、自分独りの節義を完うするために天下の正義をそこなうことになる。 次のティトゥス・リウィウスの言葉は真実である。 「王様の庇護の下に養われた者の言葉は、常におびただしい虚飾と空なる証言に満ちている。 皆が見さかいなく自分の王様を 渾徳 ( こんとく )の最上位に押し上げるから *」。 * ここにモンテーニュの政治上の理性主義、ないしその帝王機関説の片鱗がうかがわれる。 後出三の一参照。 人はネロに対して不敵な返答をした、あの二人の兵士の大胆さを非難することもできよう。 一人は、なぜわたしを憎むのかときかれると、「おれはお前を、かつてはそれに値したから、敬愛もした。 だが今は、父殺し・火つけ・大道芸人・馬丁となり下ったから、それなりにお前を憎むのだ」といった。 もう一人は、なぜわたしを殺そうとするのかと問われて、「これよりほかにお前の止めどのない悪逆をおしとどめる方法がないからだ」と言ったのである。 けれども、彼の悪逆無道について彼の死後になされた・そして永遠にくりかえされるであろう・あの全世界の証言にいたっては、健全な悟性を有するかぎり、なんぴともこれを非難することはできないであろう。 わたしが不快に思うのは、あのラケダイモンのような神聖な国にも一つのはなはだしい虚礼があったことである。 王が死ぬと、すべての同盟者及び隣国人、すべての島民は、男も女も、皆入り交じって、その額を切って 喪 ( も )のしるしとし、大声で泣きわめきながら、その王こそ(実際はそれがどんな王であったにしても)、自分たちが戴いた最善の王であった、と言いふらす。 すなわち、功績に捧げるべき賞賛を、王という位にささげ、しかも最高の功績に属すべき賞賛を、最低最下の位にささげたのである。 アリストテレスは、あらゆる問題をあげつらった人であるが、ソロンの「誰でも死なないうちは幸福だと言われるわけにゆかない」という言葉に関して、「では、仕合せに生きそして死んだ者は、あとでその評判が悪くなっても、子孫が困窮しても、それでもなお幸福だと言っていいのか」と尋ねた。 我々はうごめいている間こそ、先回りによってどこへなりともすきなところにゆく。 だがひとたび生を失えば、我々はどんなものとも没交渉になるのだ。 して見れば、ソロンはこう言った方がよかったのではないか。 「絶対に人は幸福になることはない。 人は亡くなった後でなければ幸福ではないのだから」と。 (ルクレティウス) (a)ベルトラン・デュ・ゲクランは、オーヴェルニュのピュイに近いランコンの城を攻囲中に戦死した。 籠城者たちは、後に降伏したとき、この人の遺骸の上に城の鍵をささげさせられた。 ヴェネツィア軍の総大将バルトロメオ・ダルヴィアノがブレシアノ地方の遠征中に戦死し、遺骸が敵地ヴェロナを通ってヴェネツィアに運ばれなければならなかった時、軍中の人々の大部分は、この際ヴェロナ側に向って通過免状を乞うがよいという意見に一致した。 ところが、テオドロ・トリヴォルツィオはこれに反対した。 そしてむしろ、合戦の運にかけても押し破って通る方がましだと主張した。 生前少しも敵を恐れなかった者が、死んでからこれを恐れるような風を見せるのは、似合わしくない と言って。 (b)まことに類似の場合に、ギリシアの法律によると、埋葬のために敵に向って死骸の引渡しを乞うたものは、勝利のほまれを放棄したものと見なされ、戦勝塔を建てることがゆるされないことになっていた。 そしてその乞いを受けた者の方に、かえって戦勝の名目がゆるされた。 そんなわけでニキアスは、そのコリントス勢に対して明白にかちとった勝利を失った。 そしてアゲシラオスの方が、そのボイオティア勢に対してすこぶるあやしげに得た勝利を確実にした。 (a)これらの事柄はめずらしいことのように思われるかも知れないが、事実いかなる時代にも我々が自己に関する心遣いをこの世の向うにまで及ぼすことはもちろん、天寵がきわめてしばしば墓の中まで我々についてゆき、我々の遺骨にまでも及ぶと信ずることさえ、ゆるされていたではないか。 これについては、古代の実例はずいぶんたくさんあるから、我々の間の例を別にしては、特にわたしがこれに言及する必要はないと思う。 イギリス王エドワード一世は、スコットランド王ロバートとの長い戦いの間に、自分の親臨がいかに味方の戦闘によい影響を及ぼすかを経験したので、つまり自ら陣頭に立った場合はいつも勝利をえたものだから、その死に臨むや、太子に向い、「わたしが死んだら、必ずわたしの遺体を煮て骨と肉を分離させ、肉はこれを墓に葬り、骨の方はこれをとっておいて、スコットランドに事あるたびに、お前自ら身に帯びて出陣せよ」とおごそかに遺言された。 あたかも運命が勝利を決定的に彼の手足に結びつけているかのように。 (b)ヨハン・ジシュカは、ウィクリフの邪説をまもるためにボヘミアを乱した人であるが、自分の死後その皮膚を剥ぎ、それで太鼓を作り、敵と戦うにあたってはいつもそれを携えてゆくようにのぞんだ。 彼自ら指揮して得た勝利をそうやって継続できると考えたからだ。 同様に或るインド人たちは、スペイン人との戦いに、彼らの酋長の一人の遺骨を携えてゆき、彼が生きていた時のめでたき武運にあやかろうとした。 また同じ地方のもう一つの民族は、その合戦の際に倒れた勇士たちの死骸を戦場に引きずってゆき、味方の武運と激励とに役立たせた。 (a)始めの例は、いずれもただ彼らの過去の行為によって得られた評判を墓の中に保存するだけであるが、後者はそこに更に積極的な効果を発揮させようとしている。 勇将バイヤールの物語は最もよくできている。 この人は、火縄銃によって胴なかに致命的な傷をうけたことを覚ったが、戦場から退くようにすすめられると、「おれは最期に臨んでも敵に背なかをみせようとは思わない」と答えた。 そして力の限り戦い、いよいよ力がつきて馬に乗っていられなくなってから、始めて家令に命じてその身を或る樹の根もとに横たえさせた。 ただしあくまでも敵におもてを向けて死ねるように。 そして望みどおり敵をにらんで死んだ。 わたしはこの問題のために、さきにあげたいずれにも劣らない著名な事例をもう一つ加えなければならない。 皇帝マクシミリアンは、現在の王フィリップには曽祖父にあたらせられ、偉大な特質を沢山にもっておられたが、わけても玉体まことに美しくいらせられた。 だが、いろいろな御気質の中に、帝王の御気質には全く反するそれを、すなわち、火急のおん大事ある時は便器に跨ったまま御決裁を遊ばされるという帝王がたの常とは、はなはだちがったそれを、持っておられた。 というのは、最もなれた下僕にさえ、その便所における姿をお見せにならなかったのである。 小便をなされるにも隠れてあそばされた。 まるで年頃の娘のように気をつかって、医者にも誰にも、人が通例かくしておく諸器官を見られまいとなさった。 (b)わたしだって、露骨な口はきくけれども、やはり、生来、この恥じらいは知っている。 必要あるいは欲望に大いにけしかけられない限り、我々の習慣が隠せと命じている器官や行為を人前に示しはしない。 わたしは、男としては、特にわたしのような職分 *の男としては、むしろ不似合だと思うほど、その点では窮屈にしている。 だが彼においては、 (a)これが余りに神経質すぎた。 彼はその遺言書の明文によって、自分が死んだら股引をはかせてくれ、とまでお命じになったのである。 それ程に思うなら、追って書きの中に、「それをはかせてくれる者は目隠しをすること」とでもつけ加えればよかったに。 (c)キュロスはその子供たちに、「お前たちにしろ誰にしろ、魂がこれを離れた後は、決してわたしの体にさわることも見ることもならぬ」と言ったが、わたしはこれを彼の何かの信心のせいにする。 なぜなら、彼の伝記を書いた人〔クセノフォン〕も彼自らも、ともに彼らの一生を通じて幾多の偉大な特質を示しているが、始終そこに宗教に対する特別の心遣いと敬意とを交えているから。 * 彼は自ら、王臣 gentilhomme たること武士 soldat たることをもって、本職と心得ているのである。 (b)これはさるやんごとなきお方が、わたしの親類の者で治乱 何 ( いず )れにおいても相当その名を知られた或る男について、わたしにお話しになったことであるが、わたしはそれを伺っていやな気がした。 彼はそのお方の宮廷にお出入りをしていたものだが、老衰の末死に臨むと、結石の激しい痛みに苦しみながら、その最後の時間のすべてを、一方ならぬ心遣いをもって自分の埋葬の儀式を指図することに費やし、自分を見舞に来て下さるすべての高貴な方々に、「必ずお前の葬儀には参列してやる」という約束をおさせしたのである。 わたしにこの話をなさったその宮様に対してさえ、彼がその最期をお見舞い遊ばされた際、「どうか御家中全体を私の葬儀に参列させて下さい」としつこくお願いし、いろいろな先例や理由をあげて、それが自分のようなものには当然なことであると証明したのである。 そして、やっとそのお約束を得てしまうと、そして思うがままに葬礼万端の手筈を命じ終ると、さも満足そうに絶命した。 こんなに執念深い虚栄はあんまり見たことがない。 これとは正反対の執心も(ここにもわたしは身内の実例を欠かないのである)、すなわちその葬礼をある特別な例のないつましさをもって極度に切りつめ、お供一人 提燈 ( ちょうちん )一張りに限ろうとまで心を砕くのも、やはり同じたぐいであると思う。 なるほどこの心持をほめるものがある。 マルクス・アエミリウス・レピドゥスの遺言をほめるものがある。 この人はその相続者に向って、そのような場合に世間でするのを常とする儀礼をわがためには行うに及ばないと言ったのである。 だが、自分に知覚されない浪費と満足とを避けることも、やはり節制質素なのであろうか。 そんなことは楽な・辛くも何ともない・苦行である。 (c)葬式の指図までする必要があるとすれば、わたしはその場合もまた、人生諸般の行事におけると同様に、めいめいがその身分境遇にふさわしいように取りきめるべきだと思う。 哲人リュコンは、賢明にもその友に遺言して、「わたしの死骸は皆がもっともよいと思うところに埋めるがよい。 葬儀に至っては、贅沢にも粗末にもならないようにせよ」と言ったのである。 (b)わたしならもっぱら習慣にこの儀礼を指図してもらう。 そしてその決定はわたしがその時御厄介に相成るであろうどなたになりとよろしくお委せする。 (c) そは自分のためには軽視すべく・残れる家人にとっては大切にすべき・事柄なり (キケロ)。 それから、或る聖人は、いかにも聖人らしく、 葬儀の心遣い、墓場の選択、法事の壮麗は、むしろ生ける者の慰めにかかわることにして、死者のためにはどのようにてもよきことなり (聖アウグスティヌス)と言われた。 だからソクラテスも、その臨終の時に自分に向って「先生はどのように葬られることをお望みですか」ときいたクリトンに、「君たちのよいように」と答えたのである。 (b)でももう少しこのことを大切に考えておくべきだと言うなら、むしろわたしは、生きて息をしているうちから自分のお墓の壮麗を楽しもうと企てる人々、自分の死んだ姿を大理石の中にあらかじめ見て喜ぶ人々の方を、真似ることにしよう。 その方がまだ気がきいている。 幸いなるかな、無感覚によって自己の感覚をよろこばすすべを知る者! 自己の死によって生きるすべを知る者! (c)わたしは、あのアテナイの民の非道を思い起すと、あらゆる民主国家に対してどうにもおさえきれぬ憎悪にかられそうである。 民主主義こそ最も自然で公平な制度だとわたしは思っているのだが *。 彼らはあのアルギヌサ島付近の海戦で(それはギリシア人が全兵力を挙げて海上で戦った最も危険な激しい戦いであったと言われている)ラケダイモン人を打ち破って凱旋したあの勇敢な大将たちを、すでに勝利をえているのにひたすら戦法上の好機を追うばかりで、とどまってその死者を収容し弔慰しなかったと言って、すこしも容赦するところなく、その弁解を聴くことすらしないで、殺してしまったのである。 それにディオメドンの事跡は、この処刑をますます忌わしいものに思わせる。 この人は、その処刑にあった内の一人であるが、将軍としても政治家としても、誠に高徳の人であった。 彼は彼らの宣告文をきき終ると、意見を述べるために進み出て、群衆のようやく静まるのをまって、少しも自分のために弁解することなく、またこの残酷な決議の非道を鳴らすこともなく、ただただ裁判官たちの身の上が心配になると述べ、どうかこの判決が彼らの幸福に転ずるようにと神々に祈った。 そして、さきに自分たちが神々に捧げた誓いを、このような輝かしい武運を得たことを感謝しながら実行しえないことから、神々の怒りが自分たちよりもかえって裁判官の方にふりかからないようにと、その誓いがどんなものであったかを人々にあかした。 そして少しも余事に及ばず、減刑を乞うこともせず、そのままいさぎよく刑場にむかった。 運命は、数年の後、アテナイ人たちの上に、しっぺい返しをくらわした。 まったく、アテナイ軍の水師提督カブリアスは、スパルタの海将ポリスをナクソス島付近でうち破ったが、前例の不幸を再びなめまいとして、その国の興廃にとって最も重大な戦争の確実な成果を失った。 そして、海上にただよう味方の死骸を一つも失うまいとしてみすみす大勢の敵を生きて帰らせ、後に彼らに、この七面倒な迷信を価高く払わせるもとを作った。 (ルカヌス) (a)ゆり動かされた霊魂もまた、そのすがりつく所が与えられないと、ただいたずらに自己の内側を彷徨するばかりのように思われる。 だから必ず何かそれがぶつかり働きかけるものをそれにあてがわなければならない。 プルタルコスは、牝猿や子犬をかわいがる人たちについて、「我々の内にある愛の器官は、正当な目あてがないと、空しくそのままにやまないで、このようにうその・仮の・相手をさがし出す」と言っている。 いや我々はよく知っているではないか。 霊魂は昂奮すると、嘘の・気まぐれの・相手をこね上げ、自分自身の所信に逆らってまでもわれとわが身を欺き、決して何者にも働きかけずに終ることはないということを。 (b)だから怒り狂った動物は、夢中で自分を傷つけた石や刃物にうちかかるのである。 いや、自分の身体を噛みやぶって自分が感じる苦痛の復讐をするのである。 (ルカヌス) (a)我々は、我々にふりかかる不幸について、どんな原因をも造り上げる。 何かに打ってかかりたくて、何にでも見さかいなく食ってかかる。 だが、あなたのいとしいお兄さんをむざんにも鉄砲でうち殺したのは、あなたが掻きむしるそのゆたかな金髪でもなければ、怒ってあなたが乱暴にうちたたくその白い胸でもないのだ。 ほかのものに食ってかかりなさい。 (c)リウィウスは、スペインにおけるローマ軍がその偉大な大将であった二人の兄弟を失った時の有様を語って、 人々は皆涙をながし一斉にその頭をうち叩けり と言った。 これは普通のことなのである。 哲人ビオンは、悲しんでその髪の毛をかきむしった王について、冗談を言ったではないか。 「この人は、毛を抜けば悲しさが軽くなるとでも考えたのかな」と。 (a)お金をなくした腹いせに、カルタを噛んで飲みこんだり、 骰 ( さい )の 鞘 ( さや )を呑み下したりするのを、見たことのない者はあるまい。 クセルクセスは、 (c)ヘレスポントスの (a)海を鞭うち、 (c)これに鉄鎖をつけ、さまざまにこれをこらしめた。 そして (a)アトスの山に決闘状を送った。 それからキュロスは、大軍を用い数日にわたってギュンデス河に復讐した。 これを渡った時にひどくこわかったからである。 またカリグラは、かつて母がそこでなめさせられた辛酸に報いるために、いとも壮麗な宮殿をうちこわした。 (c)わたしは幼い頃、よくこんな話をきいた。 「隣国のさる王様は神の鞭を受けたのに対してひそかにその返報をしようと誓い、『十年のあいだ神を祈ってはならぬ。 神について語ってはならぬ。 またわたしが位にある間は決して神を信じてはならぬ』と布告した」と。 このお話は、その国に特有な愚かさを描いているのではなく、むしろその傲慢さの方を物語っているのであった。 この二つは常に相伴う不徳であるが、今申したような行為は、まったく愚昧よりもむしろ傲慢から発するのである。 (a)アウグストゥス・カエサルは、海上で暴風雨にうたれてから、神ネプトゥヌスをうらむようになった。 そして円形競技場での華やかな競技の最中に、いっしょに並んでいる他の神々の間からネプトゥヌスの像を取り除かせてうっぷんを晴らした。 こんなことをした彼は、前のキュロスよりもカリグラよりもずっとゆるされがたい。 いや後年ドイツにおいて、クインティリウス・ウァルスの指揮の下にある味方が戦争にまけたときき、憤怒と絶望のあまり ウァルスよ、わが兵卒をかえせ と叫びながら、自分の頭を壁にうちつけて歩いたそのときよりも、いっそうゆるされがたい。 まったく、神や運命にまで、あたかもそれが自分たちの攻撃をきく耳を持っているかのように食ってかかる人々は、どんな狂気をも越えていると言わなければならない。 そこには不敬さえ加わっているのだから。 (c)それは、トラキア 人 ( びと )が雷がなったり稲光りがしたりする間、ティタンの復讐にならって天に向って弓を引き、矢によって神々に言うことをきかせようとしたのに似ている。 (a)要するに、プルタルコスの中でかの古代の詩人が言っているように、 (a)ローマ軍の副将ルキウス・マルキウスがマケドニア王ペルセウスと戦った時、味方の軍勢をたて直すための暇を得ようとして 和睦 ( わぼく )の申し入れをしたところ、マケドニア王の方はうっかりのせられて数日にわたる休戦をうけ入れ、まんまと敵に兵力を補充する機会と日時とを与えてしまった。 結局、そのために、王はあえなき最期をとげるに至ったのである。 ところが元老院の老人たちは、父祖の心事を想い起し、このやり口を古来の国風にもとるものだと非難した。 (c)つまりそれによれば、戦うには武勇をもってすべきで、 詭計 ( きけい )をもってしてはならなかったのである。 不意討も夜討もいけなかった。 逃げるふりを見せて不意に返り打つこともいけなかった。 戦争は布告してからでなければ行わず、しばしば戦場と時刻とを予告してからしたのである。 こうした良心から、彼らはピュロスに彼を毒殺せよとすすめる不忠な医者を引きわたし、ファリスキ人にはそのよこしまな学校教師をわたしたのであった。 これこそ真にローマ的な態度であって、力によって勝つことをまやかしによる勝ちよりもほこるに足らぬとする、あのギリシア的狡知やカルタゴ的狡猾とは違うところなのである。 詐欺もその時は役に立つ。 けれども、詭計によらず時の運によらず、正々堂々たる戦いにおいて互いに隊と隊と相まみえ、武勇によって打ち負かされたと思う者こそ、本当に参ったと思うのである。 (a)これらの正直な人々の言葉を見ると、彼らはまだ (エンニウス) テルナト王国では(それは我々が口をきわめて野蛮国ときめつける国々の一つだが)、「戦争はまずもってこれを布告してからでなければやらぬこと。 しかもその布告には、それに用いようとする手段、すなわち、いかなる兵士を幾人・またいかなる軍用品・いかなる攻防の具・を用いるかについて、十分な説明を付け加えること」が習慣になっている。 だが、それだけの事をしても、なお相手が譲歩もせず和解をも乞わない場合には、最悪の方法に訴えることをあえてする。 そうなったら裏切りだろうが詭計だろうが、勝つためにはどんな手段を用いても咎められるわけはないと考える。 昔のフィレンツェ 人 ( びと )は、奇襲によって敵に勝ちたいなどとは少しも思わなかったから、いよいよ兵隊をくり出す一カ月も前から、マルチネラと呼ぶ鐘を絶えずうち鳴らして敵に予告した。 (a)我々にいたってはそれ程までに潔癖ではなく、戦争から得をえる者をもって勝利の名誉をになう者だと考え、リュサンドロスにならって、「獅子の皮だけで足りない所には狐の皮をはぎ合せろ」と言っているが、奇襲はたいていの場合、この言葉を実践したものである。 そして、我々のよく言うことであるが、講和談判の時くらい大将が注意の眼を見張らねばならぬ時はないのである。 そこで、そうした理由から、「包囲された城の大将は講和のために自ら城を出てはならない」ということが、現今のすべての軍人がひとしく唱える 掟 ( おきて )となっている。 我々の父たちの時代に、ナッソー伯に対してムーゾンの城を守ったモンモール及びラッシニ両侯は、この点で非難された。 だが、それにしても、安全と利益とがなお味方にとどまるようにうまくやるぶんには、城を出ることも許されるべきであろう。 まったく、彼はごくわずかにその城を離れただけであったから、その談判の最中に 小競合 ( こぜりあい )が起った時には、かえってレスキュット殿およびその護衛隊の方がかなわなくなり、アレクサンドロ・トリウルツィオまでがそこであえなく討たれたばかりでなく、レスキュット殿自らさえ、自分の命が助かるために伯の後に従い、その証言を信じて敵の城中に入り、辛うじて難をまぬかれるというような始末だったのである。 (b)ノラの城中にいたエウメネスは自分を包囲したアンティゴノスから、しきりに講和のために出て来いとうながされた。 アンティゴノスが、さまざまな条件をもち出した末、「おれの方が位も高く力も強いのであるから、お前の方から出て来るのが当然だ」と言いはると、エウメネスの方では、「おれにこの剣のある限り、おれに優るものがあろうとは思わぬ」と立派な返答をして、要求どおりアンティゴノスの方からその甥のプトレマイオスを人質として送ってよこすまでは、頑として城を出なかった。 (a)けれどもまた、攻囲者からすすめられるままに城を出て、かえって得をした者もある。 例えばかのシャンパーニュの騎士アンリ・ド・ヴォがそれであった。 彼はコメルシの城においてイギリス兵に包囲されていたが、包囲軍の大将バルテルミ・ド・ボンヌは、城外から坑道を掘りすすめてすでに城の下の大部分を侵し、今はただこれに火を点じさえすれば籠城の士卒を微塵になしうるまでになったので、今言ったアンリにいよいよ四度目の使を出し、出て来て和を講ぜられる方がおためであろうと申し入れた。 そのようにして彼の明白な破滅が目の前に示されたので、アンリは深く敵の深切に感じた。 実にその情誼によって、彼がその兵とともに降った後に、はじめて火が坑道内に点ぜられ、支えの柱が吹っとんで、城はとうとう 木端微塵 ( こっぱみじん )になったのである。 (b)わたしは容易に他人の誠意を信ずる。 けれども、「あれはむしろ絶望のあまり勇気がなくなってやったのだ。 率直さによってでも、こちらの真心を信頼してでもない」などと判断されそうな場合には、そうやすやすと人のいうなりにはならないであろう *。 (a)けれどもわたしは、この頃近くのミュシダンで、わが軍のためにここを撃退された者どもが、彼らの党派の誰彼とともどもに、「和睦の交渉中、しかも談判がなお継続中だというのに、いきなり自分たちを急襲し全滅させたのは裏切りだ」と非難しているのに会った。 なるほど世が世ならば、おそらくそれももっともと言わなければなるまい。 だが、今し方わたしが述べたとおり、我々の習わしはそういう掟からは全くかけ離れているのである。 すなわち、約束の最後の調印がすむまでは、お互いに気をゆるしてはならないのである。 それまではまだ事終っていないのである。 (c)だから、やさしい有利な話しあいによってたった今自分たちの都市の降伏が容れられたからといって、早くもその約束が本当にまもられるものと思いこみ、勝ちほこった敵の欲するがままに、その士気が最もあがっている最中に、敵兵の自由入城をゆるすなどは、やはり危険千万なことであった。 ローマの執政官L・アエミリウス・レギルスは、フォカエアの城を奪い取ろうと努めたが、住民のたぐい稀な勇敢さのために空しく時日を失ったので、「是非自分たちを連合国の都市に入るように入城させよ。 今後は君たちをローマ人の友と見なすから」と約束して、彼らに敵対行為に対するすべての心配をすてさせた。 けれども、彼がその威武を示すために軍を従えてそこに入城した時には、いかに努力しても、部下の昂奮を抑えることができなかった。 そして目の前にそのフォカエアの町の大部分が、軍靴に踏みにじられるのを見なければならなかった。 つまり、欲望と復讐の力が、ついに彼の権威および軍規の力を踏み越えたのである。 (a)クレオメネスは言った。 「戦争中は敵にどんな危害を加えても是非を問われない。 それは神々の眼から見ても、人々の眼から見ても、正義に反しない」と。 そしてアルゴス人と七日の休戦を約しておきながら、三日目の晩に寝こみを襲ってこれを破り、「自分の休戦条約の中には夜のことは何とも言ってない」と言訳をした。 だが、神々はこの不信と狡知をお罰しになった。 (c)談判のあいだに人々が心をゆるめたひまに、カシリヌムの都は奇襲によって奪われた。 しかもそれは、最も正義を重んずる軍士と最も軍規厳正なローマ民軍時代のことである。 まったく、「もって来いの時と場所でも、敵の卑怯につけ入るようにその愚かさを利用することはゆるされない」などとは、どこにも言われてないのである。 いや本当に、戦争というものは、本来理屈にもとりながらしかも理屈の立つ特権を、たくさんに持っている。 そこには、 何人 ( なんぴと )も他人の愚かさにつけ入りて利得すべからず (キケロ)という規則はないのである。 だがわたしはクセノフォンが、彼が戴いていた完全な皇帝 *の御言葉により、またそのさまざまの御勲功によって、こうした諸特権にえらく広い幅をもたせているのには驚く。 彼は大将としても、ソクラテス門下の高足の中に数えられる哲学者としても、この種の問題にかけてはすこぶる重きをなす作者であるのに。 わたしは、どんな場合にも、あんな広範な許容には賛成できない。 * クセノフォンがその著『キュロペディア』の中に描いている理想の皇帝キュロスを指す。 (a)ドビニ殿がカプアの町を包囲しこれにはげしい攻撃を加えた時のこと、お城の大将のファブリツィオ・コロンナ殿が 稜堡 ( りょうほ )の上から和睦を申し出て、部下のものどもがいささか手をゆるめたすきに、我が方の強者どもは 忽 ( たちま )ちに城を奪い取りこれを微塵にしてしまった。 いや、もっと記憶に新たなところでは、イヴォアにおいてユリアノ・ロメロ殿が 粗忽 ( そこつ )にもモンモランシー元帥殿と講和しようとしてその城を出たところ、帰って見ると城はすでにとられていた。 しかし彼らもまた仇を取られずにはすまなかった。 ペスカラ侯が彼らの庇護の下にオクタヴィアノ・フレゴサ公の司令していたジェノヴァを包囲した時のこと、講和談判が両方の間で大いに進み、人々はみなそれがすでに成立したものと信じていたところ、いよいよそれが締結されようとする瞬間に、スペインの軍勢が 雪崩 ( なだれ )のように押し込んで来て、まるで勝利者のような顔をした。 またそれから後には、ブリエンヌが司令していたバロア州リニ市で、皇帝おん自らこれを取り囲み、ブリエンヌ伯の副将ベルトゥーユが講和のために城を出たところ、その協議の最中に城はもう奪われていた。 (アリオスト) と彼らは言う。 けれども哲人クリュシッポスは意見を異にした。 わたしだって余り賛成ではない。 まったくクリュシッポスが言っているとおりである。 競走をするものは、もちろん早さのために全力をつくさなければならないが、手をさし伸べて相手をさえぎったり脚をのべてこれを倒すようなことは、とうてい許されるわけがないのである。 (b)いや、更に高潔なのはあのアレクサンドロス大王で、夜にまぎれてダレイオスを撃つことが得策だと勧めたポリュペルコンに対して、「いけない」と彼は言ったのである。 「勝利をかすめ取るのは、わたしがすることではない。 恥ずべき勝利をえんよりは、むしろわれ運つたなきを嘆かんのみ (クイントゥス・クルティウス)」と。 (a)死はあらゆる義務から我々を解放すると言われる。 わたしはこれをさまざまに解釈した人々を知っている。 英国王ヘンリー七世は、あのマクシミリアン皇帝の御子ドン・フィリップ、もっと尊げに並べて呼び奉るならばカルル五世皇帝の御父ドン・フィリップと仲直りされたが、その時そのドン・フィリップは、ヘンリーの敵でオランダに逃れて隠居していた白ばら家のサフォーク公を、決してその命を害しないならばという約束でヘンリーの手に委ねた。 ところがそのヘンリー七世は、死に臨むと、王子に遺言して、自分が死んだら直ちに彼の命を絶て、と命ぜられた。 近くはアルバ公がブリュッセルにおいてホルン侯とエグモント侯のおん身の上に関して我々に見させたあの悲劇の中にはいろいろと注目すべき事柄が沢山にあったが、中でもかのエグモント侯は(この人の言葉を信じてホルン侯はアルバ公に降ったのだったから)、どうか自分をさきに死なしてくれと嘆願せられた。 彼は死んでそのホルン公に対する義理から解かれようと思ったのだ。 だが死はヘンリー七世をその約束から決して解除しなかったし、エグモント侯の方は死ななくてもその責めをゆるされていると思う。 我々は我々の力と手段とを越えて、責任を負うことはできないのである。 だから、行為と実践はとうてい我々の力ではどうにもならないのであるし、本当に我々の力で動かせるのはただ意志だけであるから、その意志なるものの中にこそ、人間の義務に関するすべての規則は、必然的にその礎を置かれおし立てられなければならないのだ。 こう考えるとエグモント侯は、その霊魂と意志とに約束の責任を負わせているから、これを実行するだけの力をもたなかったとはいえ、そしてホルン侯よりあとに生き残ったとしても、確かにその義務から解かれている。 ところがイギリス王の方は、その意図によってその約に背いたのであるから、この不信の実行を死後までのばしたからといって、到底ゆるされるわけにはゆかない。 それはヘロドトスの石工と同じことである、そいつは、自分の仕えていたエジプト王の宝の秘密を生きている間こそ忠実に守ったが、死にのぞんでそれを子供たちにあかしたといわれる。 (c)わたしは当世の多くの者どもが、ちゃんと他人の物をかすめ取っていることを意識していながら、遺言によって自分が死んだ後にそれを弁償すればいいと思っているのに出あった *。 早速にもなすべきことをそんなにおくらせたり、そればかりの悔恨と賠償とをもって悪事を償おうとするなんて、まったく彼らのするところには一文の値打もありはしない。 彼らはそれ以上に、自分自身のものまで吐き出さなければいけないのだ。 いや、つらい苦しい思いをして支払えばこそ、彼らの賠償もそれだけ正しくそれだけ値打のあるものとなるのである。 後悔は重荷であることを要する。 * 第三巻第二章「後悔について」にこの泥棒の話が詳しく語られる。 他人に対する何かの遺恨を、生きている間は隠しておいて、それを洩らすことを遺言の時まで取っておく人々と来てはますます悪い。 いや、それは余りにも己れ自らの名誉をおろそかにしている証拠である。 そうやって心を傷つけられた者は、彼らを思い出すたび毎に憤慨させられるのだから。 また、むしろ、自らの良心を大切にしていない証拠でもある。 というのは、彼らは、厳粛な死のまえでさえ自分の遺恨をすてきれなかったばかりか、その執念を自分の命以上に延ばしているのだから。 ことの真相が認識できなくなるまでその判決を延ばす裁判官もまた不正である。 わたしはできるものなら、わたしの死が、わたしの生がかつて言ったことよりほかには何も言わないようにと、心がけよう。 [#改ページ] モンテーニュはここに漠然と簡単ながら、どうして自分が随筆など書くようになったかを述べている。 だからここには、最後のパラグラフに何となくわが『徒然草』の書き出しの句を思わせるようなことが書かれているのを見るだけである。 第一巻第五十章、第二巻第八章のはじめにおかれた解説をあわせ読まれたい。 モンテーニュが何時頃から読書家から文筆家に転じたかは、資料によって確立しがたいが、やはりラ・ボエシを失って、心中悶々の情を聞いてもらうすべを失ってから、いよいよ紙に向って独り、t te t te avec lui-m me をするより仕方がなくなったからであろう。 (a)ちょうどただの空地は、よしそれが肥えていても、種々さまざまの役に立たない雑草がもさもさしていて、これを役に立てるためには、我々の役に立つような何かの種子をそこに蒔かねばならないように、また婦人たちはたった独りでもなるほど形のない肉の塊やかけらを産み出しはするが、善い自然の世継が得たいならば、なおもう一つの種子をそこに加えなければならないように、精神もまた同じことである。 人がもし何事かでそれをみたし、それを抑制することがなければ、精神もだだっぴろい想像の野原をただ無茶苦茶に駈けめぐるばかりであろう。 この章もまた初期の随想の一つであるが、後に自らを描こうとする意図が加わって始めて興味津々たるものとなった。 モンテーニュはその序文のなかで第一に約束したように、常に率直正直である。 だからしたくなれば自慢もするが、欠点といえどもあえて少しもかくそうとはしない。 世の学者先生や著者たちが、いかにも自分は頭がよく、道徳的にも潔白であるような顔ばかりするのとは、まさに反対である。 そこにモンテーニュの魅力の一つがあろう。 ここでも彼は、自分の記憶力の不足を告白する。 ただそれだけでも物おぼえの悪いのをひそかに嘆いている読者は慰められるが、さらに彼はそういう欠陥にもまたなにかの取り柄があること、そしていわゆる長所だって場合によっては自他を困らせることなどを教える。 ここにも無為無学をたたえ、無用の用あることを説く老荘道家の発想と相通ずるものがある。 とかくものごとをただ一方からばかり眺め、因習的な判断にばかりとらわれていた人たちは、なるほどそういう見方もあるのかと、始めて気がつく。 そしてその眼界をもその思想をも広くゆるやかにしてもらう。 むしろそんな小さなことを悲しんだり 羨 ( うらや )んだりするよりも、自己の真実に徹することの方が、人間にとっては肝心なのだということを教えられる。 この一章の主意はおそらくそうしたところにあるであろう。 (a)およそわたしくらい記憶の話をするのがふさわしくない男はない。 だってわたしはわたしの内に、ほとんどその痕跡すら認めないからである。 いや、わたしの記憶ほど恐ろしく不完全な 記憶 ( やつ )が他にあろうとは思われないからである。 他の性能はみな尋常普通なのをわたしはもっている。 だが記憶ということにかけては、わたしはふしぎな珍しい男、正にこれによって評判をかちえるに足りると思う。 (b)わたしはそういう生れつきに当惑するばかりではない。 まるでわたしが自分の無分別を責めてでもいるようにとるのである。 つまり彼らは記憶と分別との間にけじめをつけないのである。 これはわたしの立場を著しく不利にする。 いやそれどころか、それはわたしを傷つけることになる。 だって経験に照らして見ると、むしろあべこべに、優れた記憶こそとかくひ弱な判断に伴いがちではないか。 彼らはまた、つぎの点でもわたしを傷つけている。 だって、わたしは人の友であることより大事なことはないと思っているのに、わたしの物覚えのわるいことを咎めるその言葉でもって、わたしの忘恩をせめ立てるのだから。 人はわたしの愛に浴しようとわたしの記憶にすがりつく。 そして生れつきの欠陥と意識の欠陥とをごっちゃにしている。 そして言う。 「あいつはこれこれの頼みや約束を忘れた。 あいつは少しもその友達を思い出さない。 あいつはおれのために、かくかくのことを言うべきなのを、なすべきなのを、いや黙っているべきであるのを、少しも思い出さなかった」と。 なるほどわたしはじきに忘れるかもしれない。 だが友人からたのまれた用事をおろそかにするなんて、そんなことは決してない。 どうかこれをわたしの欠陥のせいだと思ってがまんしてほしい。 悪意だとは思わないでほしい。 悪意くらいわたしの気質の敵であるものはないんだから。 わたしは或る程度こう思って自ら慰めている。 第一に、 (c)わたしはもっぱらこの病のおかげで、ともすれば心の中に生じそうであった、もの忘れよりも更に悪い病すなわち野心を、やっつけることができたから。 まったく、えらい人たちとの交際に心を砕く者にとっては、これこそやりきれない欠陥なのである。 それに、自然の推移の同じような沢山の実例が教えているとおり、いつも自然は、わたしにおいても、この性能が衰えるに従って、それだけ他の幾多の性能を強くしてくれたのである。 まったく、記憶のおかげでひと様の創意や意見が始終わたしのうちに頑張っているならば、自分もまた皆さんと同様に、わが精神と判断とにそれら自らの力を行使させないで、容易にそれらをして他人のあとをよろよろおめおめと追いかけさせることであろう。 (b)またおかげでわたしの話が手短かであるのも仕合せだ。 まったく記憶の倉庫は創意の倉庫よりも常に多くのものを蔵しているのである。 (c)もし記憶がわたしに忠実であったなら、さまざまな主題が、わたしの多少は賦与されているおしゃべりの性能を呼びさまし、ますますわたしの談話をあおりたてて、わたしはおしゃべりをもってわがすべての友だちを聾にしたことであろう。 (b)そうなったらみじめだ。 わたしはそれを親しい友達のたれかれの実例によって経験する。 すなわち、記憶が彼らに物事を完全にありありと想い出させるに従って、彼らはますますおしゃべりを昔に引きもどし、それをくだらない事柄で一杯にするから、お話そのものは面白くても折角の面白さがおかげで押しつぶされてしまうのだ。 もしそのお話が面白くなかった日には、諸君は彼らの記憶の幸運をのろうか、あるいは彼らの判断の不運をのろわずにはいられまい。 (c)いや興に乗って来ると、話を閉じたり中止したりすることはむつかしい。 馬の力量にしても、楽々と鮮やかなストップをするかどうかで、一番よく知られるのである。 節度ある人々の間にさえ、わたしはそのおしゃべりを止めようとして止められないでいる人たちを見受ける。 彼らはもうおしまいにしようと切っかけを捜しながら、だらだらとしゃべりつづける。 まるで衰え疲れた人のように引きずってゆく。 殊に老人が危険である。 いろいろ古い事柄はおぼえているくせに、近頃幾度もそれらを繰りかえしたことは忘れている。 わたしはすこぶる面白いお話が、或る殿様のお口にかかるとはなはだ退屈なものになるのを経験した。 傍のものどもはそれぞれそれを百万べんも聞かされていたからである。 (b)第二にわたしは、ある古人がいっているとおり、受けた侮りをいつまでも覚えていないだけでもしあわせである。 (c)わたしには一人の囁き手が入り用であろう。 例えばあのダレイオスがアテナイ人からこうむった侮辱を忘れないために、そのお小姓に、彼がテーブルにつく度毎に、「陛下よ、アテナイ人を想い出し給え」と三度ずつ言わせたように。 (b)それからまた、たびたび見る場所、たびたび読む書物が、常にみずみずしい新しさをもってわたしにほほえみかけることもしあわせだと思う。 (a)「物覚えにかけて十分な確信がない者はうっかり嘘をつきなさるな」といわれるのは、理由のないことではない。 わたしは文法家が「嘘を言う」(dire mensonge)と「嘘をつく」(mentir)との間に区別を設けているのを知っている。 すなわち「嘘を言う」とは、嘘のことを本当のことだと思って嘘とは知らずに言うことであるが、ラテン語における「嘘をつく」という語の意味は(わがフランス語はそれから来たのであるが)、結局己れの良心に逆らうことを言い、従って、「嘘つき」と言えば、今わたしが取り上げているような、自分の知っていることのあべこべを言う人にかぎる、というわけだ。 ところでこの「嘘つき」たちだが、かれらは何から何まで全部作り上げることもあれば、何かの真実をいつわったり変えたりすることもある。 この変えいつわる場合は、自分ではそれを同じ形の話にしばしば繰り返しているつもりでも、いつの間にか矛盾におちいっている。 なぜかといえば、物事はまずそれがあるとおりに、認識や知識の道を通って、記憶の中にはいって来てそこに刻みつけられるのだから、それはもともと堅固な根拠を持たない嘘の事柄を押しのけて、幾たびとなく考えの中に現われて来ないはずはなく、そのつど最初に認識された様々な事情は、心の中に深く浸みこんで、後から加えられた・うその・でっち上げの・部分に関する記憶を消滅させずにはおかないからである。 彼らが徹頭徹尾作り上げた事柄においては、彼らの嘘に衝突する反対の印象が一つもないだけに、それだけどじをふむおそれはないように思われる。 だがそれにしても、それはとらえどころのない空のことであるから、当人の記憶がよっぽどしっかりしたものでない限りとかく記憶から逃げ去りがちである。 (b)そういう例をわたしはたびたび実際に見聞した。 だが、笑止千万にも、ただ自分の調停する事件をうまくまとめ、ひたすら相手のお歴々の御意にかなうことばかり考えている口先上手の方が失敗している。 まったく、彼らがその信念をも良心をもあえてその奴隷にしよう従わせようとするそれらの事情は、色々な変化をこうむらなければならないから、その都度彼らの言葉も変らなければならないのである。 そこで彼らは同じ物事を、時には黒いと言い、時には黄色いと言い、甲に向ってはああ、乙に向ってはこう、と言うことになる。 だがふとそれらの甲乙丙丁が、それぞれ聞いたところのまるで食いちがった事柄を持ち寄りでもしたら、一体どうなるか。 さしもの口達者も台なしじゃないか。 それに、彼ら自らうっかり自縄自縛に陥ることもきわめてしばしばである。 まったく、同じ主題について捏ねあげたあれほどさまざまな形態を一つ一つ覚えているには、どれほどの記憶力があったらば足りるであろうか。 わたしは当世の多くの人々が、そういう用意周到のすばらしい評判をきいてうらやましがるのを見たが、それはただ評判だけのもので、実際の効果はないものだということを、彼らは知らないのである。 (c)本当に、嘘つきは呪うべき不徳である。 我々は言葉によってはじめて人なのである。 いや、それによってはじめてお互いに心が通うのである。 我々が真にその恐ろしさ、その重大さを知るならば、他の犯罪以上に火刑をもってそれを罰するのが当然であろう。 火あぶりの刑はこの嘘つきという罪に対してこそ適用されるべきだろう。 人はいつもはなはだ不適当に子供たちの罪のない過失を罰する。 何らの痕跡も何らの結果も残さないような無心の行為のために彼らを折檻する。 だが、ただ嘘をつくことだけ、それからその少し下位に、強情を張ること、ただそれらだけが、人があくまでその発芽と増長とを阻止しなければならない事柄のように思われる。 この二つは彼らの成長とともに増長する。 いや、一度舌にこの悪い癖をつけると、それをあらため直すことがどんなにむつかしいかは、想像以上である。 それで身はれっきとした紳士でありながら、この悪癖にかかってどうしても脱けきれない者も出てくるのである。 わたしの仕立屋はまことに良い男であるが、ついぞ一ぺんも彼が真実を言ったのを聞いたことがない。 真実を言う方が彼に有利な時でさえも。 もし真実のように虚偽もただ一つの顔だけしか持たないならば、我々はもうちっと仕合せだろう。 我々は嘘つきの言うことの正反対を確かな事と見なすことができようから。 ところが真実の裏面は種々様々な顔をしており、そこには無限の広さがある。 ピュタゴラスのともがらは、善を確実で限界があるものとし、悪を限界がなく不確実なるものとしている。 千の路が的をはずし、ただ一すじだけが的中するのだ。 実際わたしもせっぱつまれば、はっきりした恐ろしい危険を避けるために、ずうずうしい・勿体ぶった・嘘をつかないとも限らない。 或る昔の教父は言った。 「言葉の通じない人間とともにいるよりは、見知りごしの犬とともにいる方がましだ」と。 異邦人は人にとりて人間にあらざるがごとし (プリニウス)。 まったく、嘘の言葉は沈黙よりどれほど親しみにくいかわからない。 (a)王フランソワ一世は、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの使臣で雄弁学において非常に有名であったあのフランチェスコ・タヴェルナを、こんな風にしてとっちめてやったと御自慢になった。 この者は、ある重大な事件についてその主君の申し開きをするために陛下の許に遣わされたのだが、それは次のような次第である。 王は、自分が前に追い出されたイタリアに、特にミラノ公領に、なお多少の気脈を通じていたかったので、そのミラノ公の側近に、味方の貴族の一人を、ほんとうは使臣としてであるが表面はただの私人として、しかもただその人の私用のためにそこにいるかのようによそおわせて、駐在させようと考えつかれた。 なぜなら、ミラノ公はむしろローマ皇帝 *の方に深い関係があり、特に皇帝の姪御で現在はロレーヌ公の未亡人となっておられる、あのデンマーク王の御息女と御婚約中でもあったから、我々と少しでも交際があるように見られては大変御都合が悪かったのである。 こういう任務には、ミラノの貴族で王の主馬寮に仕えるメルヴェーユが最も適していた。 そこでこの者は、数通の秘密な訓令と使臣としての信任状とを与えられた上、更に表面を 糊塗 ( こと )するために、彼の私用に関して便宜を与えられたい旨の公宛ての紹介状までも与えられてやって来たのであったが、余り長く公のお側に留ったものだから、とうとう皇帝に感づかれるに至り、それがやがて、我々の察しどおり、後でおこる事件の原因となった。 つまり公は、彼に刺客の疑いがあるという言いがかりをつけて、ある闇の晩に彼の首をはねさせ、しかもただの二日で万事を片づけてしまったのである。 そこで、自分の側に都合がよいように、いかにももっともらしい理由を沢山ならべ立て、「公はあの者を、ただ一介の貴族、自己の臣下が、ただその私用をもってミラノに来たもの、その他には何の資格もないものと思っておられました。 決して王家に仕えるものとも、王の知遇を得ているものとも、いわんやその使臣であろうなどとは、思っておられませんでした」と言うや、王は様々の反駁と詰問とをもって彼を糺明し、四方八方から彼を攻め立てたあげく、「なぜそれならば夜陰ひそかに彼を殺したのか」とつめよられた。 ここにおいて、可哀そうに、絶体絶命、とうとうフランチェスコ殿はいかにも朝臣らしくこう答えてしまった。 「公は陛下を尊敬し給う余り、そのような処刑が白昼行われることを悲しまれたからでございます」と。 思ってもわかるであろう。 いかに彼が二の句がつげず生き恥をさらしたか。 しかもあのフランソワ王の名だたるお鼻のおん前で! * 皇帝というのは、この頃はカルル五世をさす。 法王ユリウス二世がイギリス王の許に使臣をつかわしてフランス王〔ルイ十二世〕に対する 謀叛 ( むほん )をすすめた時のこと、その使臣が御前にまかり出て使命を述べ終るや、イギリス王はこれに向って、そのように強力な敵に対しては万端の準備を整えることがはなはだ困難であることを強調し、それに関して幾つかの理由をあげられたので、使臣もついうっかりと、「実は私もそう考えまして重々法王を 諫 ( いさ )めたのでございますが」とまずい返答をしてしまった。 イギリス王は、自分をすぐにも戦に引き入れようとするその提言とは非常にかけ離れたこの告白をもって、後にそのとおりに見出された事実の、すなわち、この使臣が彼一個の考えではむしろフランス側に傾いていたということの、第一の根拠とせられた。 この事はやがて法王の知る所となり、その使臣は財産を没収せられ、あやうく一命をも失うところであった。 [#改ページ] (ラ・ボエシ) だから雄弁の天賦においても、或る者が容易と迅速、いわゆる当意即妙の才をうけて、いかなる局に面するも驚かないのに、或る者はのろくさくて、あらかじめ練り考えておいた事でなくては何一つしゃべれないのである。 人が婦人がたに向って、それぞれ持前の美しさがどこにあるかに従って遊戯や運動をするようにとすすめているように、わたしもまた以上の二種類の雄弁の得失について勧告をしなければならないとすれば、当今は説教家と代言人とが専ら弁舌を職とするもののようであるから、のろいのは説教家に似つかわしく、早い方は代言人に適するとでも申そうか。 なぜなら、説教家は職掌がら準備のために欲するだけの時を費やすことが許されるし、その進行は始めから終りまで邪魔されずに続けられるが、代言人の方は職掌がらしじゅう討論にはいりがちだし、相手方の意外な答弁のために脇道にそれることも多く、そうなれば自らも即座に陣容を立てなおさねばならないからである。 けれども、法王クレメンスとフランソワ王とのマルセーユにおける会見 *の際には、まるであべこべの事になった。 ポワイエ殿は、一生を代言人席で送った評判の高い人で、法王を 称 ( たた )える演説をするよう命令をうけ、久しくその想を練っていたのであるが、いや伝えるところによると、パリからすっかり準備された草稿を持って来ていたのであるが、いよいよそれが述べられる当日になってから、法王はその周囲にある他の諸侯方の御機嫌を損ずるような事でもいわれてはと、急に王に対してその時と場所柄に最も適当していると思われる別の論拠によるようにと要求された。 ところが運悪く、それはポワイエ殿があらかじめ研究してあったこととは全く違ったことだったので、彼の演説は役に立たなくなり、早速別のものを作り直さなければならなくなった。 けれども彼は自分にその力がないことを覚ったので、枢機官デュ・ベレ殿に役を代ってもらわなければならなかった。 * 一五三三年のこと。 フランス王と法王とがスペイン王カルル五世に対して同盟を結ぶための会見である。 (b)代言人の役は説教家のそれよりもむつかしい。 けれどもわたしの考えでは、どうやら及第する者は、説教家よりも代言人の方に多いと思う。 少なくともフランスでは。 (a)どうも一瞬の間に事をしてのけるのは機知が得意とするところ、ゆっくりと落ちついてやるのはむしろ判断のよくするところであるらしい。 けれども準備の暇がないと全然言葉が出ない人、それから暇があっても特にうまく言えない人は、いずれも同じ程度に異例に属するものだ。 言い伝えによると、セウェルス・カッシウスは不用意な時ほど雄弁であり、勉強のおかげよりも運のおかげを 蒙 ( こうむ )ることの方が多く、話中に 遮 ( さえぎ )られることがあれば 忽 ( たちま )ちにこれを利用するものだから、相手の方では憤りが彼の雄弁をますます倍加することを恐れ、できるだけ彼を刺激することをさし控えたくらいだったという。 わたしは実際に、生れつき辛抱強い熱心な腹案工夫なんかしてはおられない性質の人を知っている。 そういう人は、愉快自由に進まないときはまるで一文の価値もない。 我々はよく或る種の著作について、「燈油の匂いがする」という。 それはその大部分が努力だけで出来ているような著作にはどことなくごつごつした解りにくいところがあるからだが、なおそのほかに、ひたすら立派なものを作り上げようとする 執心 ( しゅうしん )、その企てに対する余りにも緊張した心の努力が、かえってその企てを窮屈にし妨害するからでもある。 あたかも水があまりに激しくあまりに豊かにひしめき合うと、ほそい一つの口から流れ出ることができないようなものである *。 * これと同じことが、『荘子』「田子方篇」に、宋の名君が「真の画人」を見出した説話を通じて述べられている。 わたしが今お話しているこうした性分の人には、また同時にこんなところがある。 すなわち、カッシウスの怒りのような、ああいう強烈な感情に動揺刺激されることは求めないが(この勢いはあまりに激しすぎよう)、つまり、ゆすぶられようとまでは欲しないが、うごかされることは欲している。 その時の、偶然の、外部からの機会によって煽られ呼びさまされることは欲している。 この種の人は、もし彼がたった独りでゆくならば、ただただよろめき衰えるのみである。 昂奮こそ彼の生命であり魅力なのである。 (b)わたしは、自分で自分を把握し処理することが得意でない。 偶然の方がその場合わたし自身よりも多くの力をふるう。 むしろ機会とか、仲間とか、自分の声の抑揚までが、わたしの精神からより多くのものを引き出す。 かえってわたしが自分独りでそれを探りそれを用いる時に見出す以上に。 (a)それで、わたしにあっては、話の方が文章よりもいくらかうまい。 いずれにしても大したものではなかろうが、どちらかといえば。 (c)またこんなこともある。 つまりわたしは、わたしのさがすところに自分を見出さないこともある。 いやわたしはわたしの判断の捜索によってよりも、むしろふとした偶然によって自分を見出すのである。 わたしも筆のはずみではいくらかうがった文句を吐いたかもしれない(勿論それは人から見たらつまらない・自分にとってだけ鋭い・言葉にすぎないが、まあそんな謙遜はやめにしよう。 誰だって、その力に相応したことしか言えるものではないのだから)。 だがわたしはそれをすっかり見失ってしまったから、その時自分が何を言おうとしたのか、今では自分にもわからない。 かえって、ときには、ひと様からそれを教えていただく始末である。 もしわたしがそういう場所毎に 剃刀 ( かみそり )をあてるなら、何もかも全くなくなってしまうだろう。 偶然が、いつかまたその上に、真昼の光よりも明らかな光を投じてくれもしよう。 そしてわたしは、自分が迷ったことにびっくりさせられることであろう *。 (a)確かに託宣の方は、キリスト出現のずっと前から、すでに世の信用を失い始めていた。 現に我々は、キケロがそれがすたれた原因を見出すことに努めているのを見るからである。 (c)次の言葉は彼が言ったものである。 何故に今日のみならず、すでに久しく、デルフォイに昔のごとき神託が行われざるや。 それが今日これ程までに軽蔑さるるは何ゆえなるや と。 (a)けれどもその他の占いにいたっては、すなわち犠牲の獣の開腹にもとづくものや (c)(これだってプラトンによれば、半分はこれらの獣の内臓の自然の構成に基づくのである)、 (a)雛鳥の足の踏み方や・鳥の飛び方や (c) 或る種の鳥類は、ただもっぱらこの易断のためのみに存するがごとし (キケロ)・ (a)稲光りや川の渦・などに基づくもの、 (c) 鳥卜師はさまざまの事を占い、解腸師もまた多くのことを予言す。 大抵の事柄は、或いは神託により或いは占いにより、或いは夢により或いは天地の不思議によって告げ知らさる (キケロ)、 (a)その他人々が公の事といわず私ごとといわず、常にその企てを支持したところのもろもろの占いに至っては、みな我々の宗教が始めて廃棄したのである。 * このあたりは前出一の三の延長線上にあり、最終章三の十三の結論につながる。 であるから、サリュス侯フランソワの実例は、わたしには珍しく思われた。 どんな星占いがあったにせよ、それは彼にとって非常に損なことであったのに、彼はさまざまな感情に攻められ迫られて、夢中でこの挙に出たのであった。 まったく諸城をも軍兵をもその手の中に握っていたのだし、アントニオ・デ・レヴィアのひきいるスペイン軍も彼から三歩ばかりの所にいたし、我々の方では少しも彼の心事を疑う者はなかったのだから、彼はもっと悪いこともすればできたのである。 まったく、我々は彼の反逆のおかげで兵隊をも城をも全然失わずにすんだのである。 我々はただフォッサンの城を一つ失っただけで、それすら、さんざん敵をてこずらせた末のことであった。 (パクウィウス) あの名だかいトスカナ 人 ( びと )の占術は、こんなにして生れたのである。 「或る農夫が土中深くその 鋤 ( すき )を入れたところ、子供のような顔でいながら老人の知恵を備えた半神タゲスがひょっこりと現われ出た。 皆はそこに駈けつけた。 そして占いの原理及び方法を含む彼の呪文と秘法とがそこで伝授され、数世紀の後までも保存された」。 いかにもその後の流行にふさわしいたわいのない起源ではないか。 (b)わたしは、こんな夢にたよるくらいなら、むしろ 骰 ( さい )でもころがして自分の問題を決定する方がいい。 (c)いやほんとうに、いずれの国でも、たいていのことはいつも運の決定に 委 ( まか )せられた。 プラトンも、その思いのままにでっち上げた国家において、もろもろの重大事件の決定を骰に 委 ( ゆだ )ねている。 そして特に、結婚が善き市民たちの間でくじによってきめられることを望んでいる。 そしてこの偶然の選抜にはなはだ重きをおき、これから産れた子供たちだけを国内において教育し、悪しき結婚から産れた子供たちは国外に放逐するよう命じている。 ただし、その放逐された子供たちの或る者が、万一長ずるに従って末頼もしげに見えるようなことがあれば、これを召還することができるとともに、始めは国内にとめおかれた子供たちも、将来の望みがなさそうに見えれば、これまた追放してよろしいと、規定している。 (b)世間には暦を研究したり註釈したりして、何でもかでもそれに準拠してきめるものがある。 あれ程に言ったなら当ることも当らないこともあるに相違ない。 (c) ひねもす的を射る時は、時には当らざるをえざるべし (キケロ)。 (b)何かの拍子に当てたからといって、わたしは少しも感心はしない。 いつも嘘をつくことにきまっている方が、かえってあてになるくらいのものだ。 (c)それに彼らの思惑はずれを、一々帳面につける者はない。 当らない方があたりまえでその方は無数にあるからだ。 当れば、それこそ稀な・信じられない・驚くべきことであるから、人がはやし立てる。 同じように無神論者と言われたディアゴラスも答えた。 サモトラキア島に行った時、海難をのがれたものが奉納したおびただしい絵馬や献納物が神殿にかかっているのをさし示して、「どうですか。 神々は人間のことにかかわり給わぬとあなたはおっしゃるが、こんなに多数の人々が神様の恵みによって救われているではありませんか」と言った者に対し、「それはね。 溺れちゃった者には奉納もできないからさ。 だがその方がずっと数は多いんだよ」と答えた。 キケロの言うところによると、コロフォンのクセノファネスただ一人が、神々の存在を肯定するすべての哲学者の間にあって、あらゆる占いの根絶に努めたのだということだ。 して見れば、 (b)我々の王侯方の間にさえ、彼らのためには残念なことだが、往々にしてこのようなくだらない事にかかり合っているものがあるのも、さして不思議なことではない。 (c)わたしは是非この眼でもって、あの二つの不思議の真偽を見きわめてやりたいものだ。 すなわち未来の法王様たちの御名前とお姿とを一つ一つ予言したラ・カラブレの僧ジョアシャンの書の不思議と、ギリシアのすべての皇帝と族長とを予言したレオ皇帝の書の不思議とを。 ところがわたしが、この眼でたしかに見きわめることができたのは、乱世においては人々が自分たちの運命の転変にうち驚く結果、すっかり迷信家になって、ますますその不幸の原因と前兆とを天に向って尋ねたがるということだけである。 いや、人々がそのお蔭でわたしの若い頃には不思議にもあんなに幸福であったことを思うと、いわばそれは頭の鋭いひまな人たちの娯楽みたいなものなのであるから、ひとたびこの緻密な方術に熟し、これを組み合せたり解いたりすることになれると、どんな書き物の中にでも、その欲するものを何でも見出すことができるのではないか、というふうに思われる。 しかし殊に彼らの 手品 ( ぺてん )を都合よくするのは、予言の文句が曖昧ではっきりせず、とりとめがないということである。 それらの作者は、そこに少しも明瞭な意義を与えていないから、後世の人々はこれに勝手な意味をこじつけることができるのである。 (b)ソクラテスのデーモン〔ギリシア語ではダイモン。 本来超人的、神的存在であるが、後には人間と神との中間的存在と考えられた。 哲学では人間に内在する超人的偉力のこと〕というのは、おそらく彼の理性の勧告を待たないで彼に現われた、一種の意志の衝動であったろう。 彼の霊魂のように非常に清められた霊魂、徳と知恵との不断の錬磨によって鍛えられた霊魂においては、この種の傾向も、たとえそれが唐突で練れていなかったにせよ、とにかく服従するに足りる重大な意味のあるものであったことは本当らしい。 人は誰でも、それぞれ心のうちに何かそのように立ちさわぐ影のようなものを感じる。 (c)それは偶然迅速猛烈に浮かびでる一想念の余響である。 だがわたしはむしろこの方にいくらかの権威をみとめ、われわれ人間の知恵の方はあんまり信用しない。 (b)わたしもたまにはそういった霊感を持つことがある。 (c)その理由は問われれば弱く、そのくせわたしを勧告したり諫止したりする点ではなかなか強いことにおいてソクラテスの場合と同様だが、ただ彼においてはそういうことがよりしばしば起ったのである。 (b)わたしもこれに従ってはなはだ得もしたし幸福でもあったから、やはりそれは一種神来の霊感と見てよいのではないかと思う。 [#改ページ] (a)勇敢勇気の掟は、「我々はできる限り、我々にふりかかる不幸災難をかわしてはならない」などと言ってはいないし、「それらが我々を襲うのを恐れてはならない」とも言ってはいない。 かえって、不幸を免れる公明な方法はすべて許されているだけでなく、それはほめていいのである。 そして勇気の働きは、主として癒す道のない不幸に我慢して堪えるところに発揮されるのである。 だから、どう身をひねろうと、どう手にもつ武器を振りまわそうと、我々はそれを悪いとは思わない。 もしもそれが凶刃から我々をまもるに役立つものなら。 (c)はなはだ好戦的な幾多の国民は、数々の戦争に際して逃走を利用し、かえって大きな得をした。 背中を見せながらかえって正面を見せる以上に敵からおそれられた。 トルコ人の間には今でも多少この方法がのこっている。 いやプラトンの語るところによると、ソクラテスは勇敢を「敵に対して一歩も譲らないこと」だと定義したラケスをわらって、「では数歩を譲って敵を討つのは卑怯だとでもいうのかね」と言った。 そしてアエネアスの退却の巧妙さを 称 ( たた )えているホメロスを引合いに出した。 そこでラケスがその説をかえて、この戦法がスキュティア人の間で行われていること、そして終いには一般に騎馬武者の間でも採用されていることを承認したので、ソクラテスは更に、どこの国民よりも頑強に戦うように仕込まれているラケダイモンの歩兵の実例をあげた。 彼らはプラタイアイの戦いにおいて、ペルシア軍の隊列を突破することができなかったので、断然意を決して後方に引退き、一度敗走したように思わせておいてから、反撃して敵の大軍を潰走させ、ついに最後の勝利をえたのである。 スキュティア人についてはこんな話がある。 ダレイオスが彼らを討伐に向った時のこと、彼は彼らの王に向って、絶えず戦いを避けて退却ばかりしていることを大いに難詰した。 これに対してイダンテュルソスは(これがその王の名であった)こう答えた。 「これはあなたを恐れるのでも生きとし生ける誰を恐れるのでもない。 むしろこれがわが国の戦法なので、我々には守るべき耕地もなければ都市も家もないからである。 敵にとられて困るようなものは何一つないからである。 あなたがそんなに喧嘩をしたいのなら、試しに我々の祖先の墓地に近づいて見られよ。 はばかりながら御相手を致すであろう」と。 (a)けれども砲戦の場合に敵に銃先をむけられてから、戦争ではしばしばそういうことが起るが、弾丸にあたるのをこわがってそわそわするのは見苦しい。 それは激烈迅速なものでとうてい避けられるものではないからだ。 ところが手を挙げたり首を縮めたりして、いたずらに戦友の物笑いのたねとなった者が実に沢山ある。 それはともあれ、カルル五世がプロヴァンスの我々に向って進軍して来た時のこと、グヮスト侯がアルルの城の偵察に出かけ、始めそれに身をかくして近寄って行った風車小屋の蔭からひょいと飛び出すと、忽ちに闘技場の上を散歩していたボンヌヴァル殿や法官アジュノワに見付けられてしまった。 人々はそれっと、砲兵司令ヴィリエ殿に告げたので、彼はぴたりと長銃のねらいをつけた。 もしこの時に、侯が発火を見ると同時に横っ飛びにとばなかったら、胴体のまんまん中を射ぬかれたにちがいなかった。 それからまた同様に、数年前のこと、わが王のおん母カトリーヌ大妃には父上にあたらせられるウルバノ公ロレンツォ・デ・メディチは、いわゆる司祭領の内にあるイタリアの要塞モンドルフォを囲まれたが、御自分の方にむけられた砲門に火が 閃 ( ひらめ )くよと見るや、ひょいとお首をちぢめて助かられた。 まったく、そうでもなされなかったら、弾丸はおつむをお剃り申すだけにとどまらず、きっとお胸のまっただ中を射ぬいたことであろう。 本当を言えば、わたしはそういう運動が意識をもって行われたとは信じない。 まったく、そういう火急の場合に、ねらいが上か下かをどうして判定することができよう。 いやむしろ、「運命が彼らの恐怖を憐れんだのだ。 もう一遍やったら、それは弾丸をよけることにはならないで、あたることになるかもしれない」と考える方が容易である。 (b)わたしは、もしも思いもかけぬ場所で不意に火縄銃の爆音に耳をうたれるならば、びっくりして飛び上らずにはいられまい。 これは、見るところ、わたしなどよりもずっと豪胆な人たちにおいてさえおこることなのである。 (c)ストア派の人たちも、彼らの賢者の霊魂が、ふと彼らの前に現われるどんな幻影妄想にも対抗しうるようにとは要求しない。 むしろ、持って生れた癖に従うのと同じように、雷電の響や建物の崩れ落ちる音には降参して、青くなっても縮み上ってもよいとしている。 そればかりでなくもろもろの感情に動かされてもよいとしている。 ただその人の判断がつつがなく完全に保たれており、その理性の状態がそのために侵されたり変えられたりしていなければ、そしてその人が自分の恐怖と苦痛とに少しも同意しなければ、それでいいとする。 賢者でない人々も第一段においては全然同じことで、ただ第二段に至って全然ちがって来るのだ。 まったく凡人においては、もろもろの感情の印象が表面にとどまらず、深くその理性の座にまで侵入し、これを 蝕 ( むしば )みこれを腐らすのである。 彼はその腐った理性によって判断し、その命令に従う。 見なさい、ここにストア派の賢者の有様が遺憾なく言い現わされているのを。 (a)いくらつまらない問題でも、まったくこの雑録の中に席を占めるに足りないということはあるまい。 われわれの普通の規則から言っても、訪問の知らせを受けていながら家で待っていないのは、目上に対してはもちろん同輩に対してさえ明らかに失礼であろう。 ナヴァールの女王マルグリットも、こう言いそえておられるくらいだ。 「来られるお方がとんなに偉いお方であろうと、これをお迎えするために、よく見られるところではあるけれど、主人がお迎えに出るということは、礼儀しらずである。 むしろ家にいてお客様を待つ方が、行き違うまいとの心遣いからだけでも、ずっと丁寧である。 ただそのお立ちの時にお送り申上げれば十分である」と。 (b)わたしはといえば、こうしたつまらぬお勤めは、しばしば両方とも忘れてしまう。 うちでは礼儀というやつは一切おやめにしているもんだから。 人によっては気をわるくなさるが、いたし方がない。 一ぺんだけ人の機嫌を 損 ( そこな )う方が、毎日毎日自分が気づまりな思いをするよりましである。 しょっちゅうかしこまっているなんて真平だ。 宮仕えをやめたからって、自分の 洞穴 ( ほらあな )にまで同じ気苦労を引きずって来るのでは何にもなるまい。 (a)身分の低い者ほど先に定めの場所に参集せよというのが、どんな集りの場合にも共通した規則である。 待たせることはおえら方の特権なのだから。 けれども、法王クレメンスと仏王フランソワとの間のマルセーユにおける御会見の際には、王は万端の用意をお命じになってからしばらく当市をお離れになり、法王が到着後二、三日の休養をとってから御前に伺候できるようにとりはからわれた。 同様に、法王とカルル皇帝とがボローニアに御入城の際にも、皇帝は法王が先に到着するようとりはからわれ、御自分はおくれてお出でになった。 人々の言うところによると、こういう王様同士の会見においては、身分の高いお方の方が先に定めの場所にゆくこと、つまりその会見が行われる国の王様よりも先にそこにつくことが、普通の礼儀だそうだが、人々はそれをこんな風に解釈している。 すなわちこういう形式によって、位の低い者の方から位の高い者のところに出かけてゆき、そのお目どおりを願うのが当り前で、えらい人の方から出てゆくべきではないというのである。 (c)それぞれの国ばかりではなく、それぞれの都市が、いや、それぞれの職業が、みな特有の礼儀をもっている。 わたしは子供の時代からそれに対してかなりやかましくしつけられ、かなり礼儀正しい人たちの中に暮して来たから、わがフランスの礼法を知らないではない。 いや、その先生だってできるくらいだ。 わたしはそれに従うことが好きだけれど、余りにそれにしばられて自分の生活を窮屈にするのはごめんだ。 中には苦しい作法が幾らもある。 そんなのは誤って忘れるのでなく分別して忘れるのであれば、ちっとも失礼にはならない。 わたしは、余りに礼儀正しくてかえって礼を失する者、ご丁寧すぎてうるさい者に、あったことがしばしばある *。 要するに礼儀作法は、はなはだ有用な修業である。 それは愛嬌や美貌と同様に、やがて我々を親しい交際へと導く最初の案内者である。 従ってそれは、我々が他人を模範として自己を教育する道を開いてくれるし、また我々の方に何か他人が学んでためになるようなものがある場合には、それがその人の役にたつように手伝ってくれる **。 この章は、第一巻第二十章などと同様に一五七二年ごろに書かれたモンテーニュ初期の随想で、哲学的ストア的随想と呼ばれるものの一つである。 引用や借用の語句実例が多く、やがて個性を豊かにたたえる後年のエッセーにくらべるとすこぶる書籍的で、のちに彼自らをして「外国(人)のにおいがする」(三の五)と言わしめたものの一つであるが、そのかわり、この頃のモンテーニュの哲学的態度、換言すれば理性や緊張した意志の力を信頼し、人生のもろもろの出来事、苦痛や死などを克服するために、たえず思索し瞑想している彼の姿を、よくあらわしている。 だがこのストア主義は深刻なものではなく、相当茫漠としているし、加筆 (b)の部分には、彼みずからの経験がながながと述べられているし、更に加筆 (c)においては、本章の主意をまったく否定してはいないが、もはや意志の緊張や困難な徳に訴えるよりも良識の指示するところに従って、自然の命令におとなしく服従しようという、自然哲学が述べられる。 しかもそれは初期の態度の鮮明なテキストとはなはだしい矛盾を示さないように、控え目に述べられている。 この死ならびに苦痛に対する後年の心境は、やがて「気分の転換について」(三の四)や「人相について」(三の十二)の章において、いよいよ力強く言い現わされる。 富裕に関する考察にいたっては、これこそほかからの借りものではなくて彼自らの経験がもとになっているだけに、本章のなかで最も興味が深い部分であろう。 しかしこの 恬淡 ( てんたん )ぶりは決して彼生来のものではなく、やはり後得のものであろう。 「旅日記」を見てもモンテーニュは案外金銭に関して几帳面である。 これらの点については拙著『モンテーニュとその時代』第四部第五部や白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のところどころを参照せられたい。 (a)人間は(古代ギリシアの格言が言っているとおり)、物事それ自体によってではなく、彼らがこれに関していだいているところの考えによって苦しめられている。 もしこの説をどんな場合にも真実であると証明することができるならば、それは我々人間本来の悲惨な境遇を慰める上で立派な根拠となるだろう。 まったく、もし不幸がただ我々の判断をとおして始めて我々の中に入って来るのだとすれば、それを無視することも幸いに転ずることも我々の思いのままになるはずだと思う。 もし物事が我々の思いのままになるのならば、どうして我々はそれらを支配しないのか。 どうして我々のとくになるようにそれらを 按排 ( あんばい )しないのか。 もし我々が不幸とか苦痛とか呼びなすものが、それ自体不幸でも苦痛でもなく、ただ我々の想像がそういう性質をそれにあたえているのだとすれば、その性質を変えることは我々にできる。 そうして我々に自由な選択ができ、何者にも拘束されないというならば、自分に最もつらい側に立って頑張るなんて、いかにも愚かな話である。 病気や貧困や侮りに、すっぱい・いやな・味を与えるのも、我々がそれらに善い味を与えようとすれば与えることもできるのだとすれば、そして、運命は我々に素材を提供するだけでこれに形を与えるのは我々なのだとすれば、これまたいかにも愚かな話である。 ところで、この我々が悪と呼ぶものは本来悪でないということ、また少なくとも、それはそのようなものであるにもせよ、それに別様の味わいや顔つきを与えることもできるのだということは(まったくこれは一つことになるが)、果してほんとうに証明できるものだろうか。 もし我々が恐れるそれらの事柄の根源であるその本質が、それ自体の権威をもって我々の中に宿るというのなら、それはすべての人において同様な形で宿るだろう。 まったく、人間はすべて一つの種に属しており、多少の差こそあれ、思惟し判断するために同じ道具器官を持っているのである。 しかるに我々のそれらの物事に対していだく考えがまちまちであるということは、明らかに、それらが我々の同意をえて始めて我々の中に入って来るのだということを示している。 或る人はおそらく、それらをその真の本質のままに自分の内に宿すであろう。 けれども他の幾千の人たちは、それらに実際とはちがった・あべこべの・本質を与えている。 我々は死と貧と苦とを、我々のおもな相手・かたき・と思っている。 ところで、或る人たちが「恐ろしいものの中で最も恐ろしいもの」と呼んでいるこの死を、他の人たちが「この世の苦労を免れる唯一の港だ」とか、「自然の至上善だ」とか、「我々の自由の唯一のささえだ」とか、「あらゆる不幸に対し誰にもたちまちにきく薬方だ」とか呼んでいるのを、知らない者はないじゃないか。 いや、一方がおののき恐れつつこれを待つかと思えば、もう一方は生よりもやすやすとこれに堪えているのだ。 (b)これなる人は、 (ルカヌス) と、死が誰に向っても優しいことを嘆いている。 (c)ところで次のような輝かしい勇気はしばらくおこう。 例えば、テオドロスが自分を殺そうと脅かしたリュシマコスに向って、「 斑猫 ( はんみょう )〔体内に猛毒をもつ昆虫〕の毒力にもまけない程の一大打撃を食らわせてくれい!」と答えたとか、大部分の哲学者たちが、わざと自らの死を進んで取ったり、あるいはそれを催促したり援助したりしたとかいう話は、やめておこう。 (a)庶民の間にも、死の前につれてゆかれて、しかもただの死ではなく時には恥とつらい責苦さえもまじっている死の前につれ出されて、あるいは強情我慢により、あるいは天性の単純さによって、まことに泰然自若、少しも平生の有様を変えなかった者どもがたくさんいる! 彼らは、家事を始末し、あとの事を友に委ね、歌をうたい、説教をし、群衆に向って話しかけ、いや時には冗談をさえそれに交え、あるいは知人のために乾杯するなど、ソクラテスにもなかなか劣りはしなかった。 或る男は首吊り場に引かれてゆく道々、「これこれの町は通らないでくれ。 そこには古い借りがあるから、商人に首根っこを押えられる危険がある」と言った。 もう一人の奴は首斬役人に向って、「どうか俺の 喉 ( のど )にさわらないでくれ。 笑いたくなるといけない。 それほど俺はくすぐったがり屋なんだ」と言った。 またもう一人は、「今夜お前は主と共に晩餐をするだろう」と彼に約束した教誨師にむかって、「じゃあ、おめえが行くといい。 俺の方は目下精進のまっ最中だからな」と答えた。 もう一人は、水をくれと言ってから、首斬りが先に一口飲んだのを見ると、「その後はご免じゃ、かさ〔ばい毒〕がうつるわい」と言った。 あのピカルディ人の話は誰でも知っている。 彼が首吊台の段に足をかけた時、人が女をつれて来て彼にすすめ、これと結婚する気なら命は助けてやろうと言ったところ(わが国の法律はときどきこんなことを許したのである)、しばらくじっと女を眺めていたが、彼女がびっこなのを見て、「吊ってくれ、吊ってくれ、女はびっこじゃ」と言った。 またこんな話もある。 デンマークでのことだが、或る打ち首になるべき男は、いよいよ断頭台に登ったとき、今のと同じ条件を持ちかけられると、娘のほっぺたがたるんでおり鼻がいやにとんがっていると言って、これをことわったという。 またトゥールーズの或る下僕は、異端の故に訴えられると、自分の信仰の正当なことを主張するために、自分の主人すなわち自分と一緒に囚われた若い大学生と同じ信仰を披瀝した。 そして、主人だってまちがうことがあると信じさせられるよりは死ぬ方がましだと言った。 アラスの町の人々について我々が読むところによると、仏王ルイ十一世がこの町を奪い取った時、人民の間には、国王万歳を唱えるよりも首を吊られる方を好んだものが、おびただしくあったということである。 (c)ナルシンガ王国では、今でも僧侶の妻は、その死んだ夫と共に生き埋めにされる。 その他の女たちは、夫の葬礼に際して、生きながら焼かれる。 いずれもこわがることなく、むしろうれしそうに。 それから、御他界になった王様のお体が焼かれる時には、その妻妾寵童から官人使丁の末にいたるまで、すべて、上下こぞって、いかにも喜ばしげにその身を同じ火中に投じ、その君に殉ずる。 あたかも主君の死の道づれになるのを光栄とでも考えているかのように。 (a)それから道化という心卑しいともがらの間にも、そのおどけを死に臨んでさえ捨てようとしなかった者がある。 執行人からいよいよ踏台をはらわれようとしたその男は、十八番の「あとは野となれ山となれ!」を絶叫した。 またもう一人は、いよいよ臨終という時、煖炉の前の藁床の上にねかされていたが、「どこがお苦しいか」と医者がたずねると、「椅子と煖炉との間が苦しゅうござる」と答えた。 また坊さんが最後の抹油を施そうと、病気のために曲げちぢこめた彼の足をさぐると、「それは 脛 ( すね )のはしっこにござります」と言った。 「さあ御許に参られるのじゃ。 支度をさっしゃれ」と勧めると、「一体誰がゆくのさ」ととぼける。 「そなたこそ、やがてゆかれるのじゃ。 御召しがあり次第に」と答えると、「それは明日の晩にお願いしたいものじゃ」と答える。 「余計なことを言わずと、ただ神様におすがり申せ。 もう間もなくじゃ」と言うと、「そんなことなら俺が独りでお願いするわい。 その方がましじゃわ」と言い返した。 先頃の我々のミラノの戦いでは、あまりにも奪取と奪還が繰り返されたので、人民はそのような運命の転変のあわただしさに堪えきれず、深く決死の覚悟をかためた。 わたしが父から聞いたところによると、一週間に自分からその身を殺した家長たちが、ゆうに二十五人を数えたほどであったという。 これにつけて思い出されるのは、クサントスの町に起った出来事である。 ブルートゥスに攻囲されたこの町の人々は、男も女も、また子供たちも、こぞって狂ったように死を願った。 彼らは我々が死を避けようと努めるのと同じいきおいで生を避けようと努めたので、まったく手の施しようがなく、ブルートゥスも、そのごく少数を救いえたにすぎなかった。 (c)どんな思想もたやすくこれをまげることはできない。 人は命にかけてそれをまもる。 ペルシア戦争の時にギリシアが誓いかつ守った、あの堂々たる誓約の第一箇条は、「我々の法をペルシアの法にかえるくらいならば、むしろ生を死にかえよう」ということだった。 いかに多くの人々が、あのギリシアとトルコとの戦いの時、割礼をうけて邪教に従うことを拒み、いかに苛酷な死を甘受したか。 だがこのくらいのことはどんな宗教も平気でやってのける事柄である。 カスティリャの王たちがユダヤ人をその領土から放逐するや、ポルトガル王ジョアンは一人あて八エキュで彼らが自分の領内に避難することをゆるした。 「約束の日が来たらすぐに退去すること」という条件で。 だがその代り王の方でも、その時は彼らのためにアフリカ行の船を仕立ててやる約束をした。 その日が来た。 「その日がすぎても命令に従わないものは永く奴隷とする」とは、かねて布告されていたことであったが、彼らに提供された船の数はごく少なかった。 しかもこれに乗り込むことができたものも、船子どものために散々に虐待された。 彼らはいろいろな侮辱を加えられたばかりか、海の上を前に後にと散々に漕ぎまわされたために、しまいにはもって来た食料もたべつくし、高い金で、長いこと、船子どもから食料を買わねばならないというわけで、やっと岸におろされた時は、何れも皆シャツ一枚というひどい有様だった。 やがてこういう顛末が風のたよりにとりのこされた人たちに伝わると、その大部分は奴隷に落ちる決心をした。 或る者どもは改宗をした風を装った。 やがてエマヌエルが王位につくと、始めは彼らを解放したが、後にその考えを変え、特に彼らの渡航のために三つの港を指定し、或る期間内に国外に退去するよう布告した。 つまりこの王は(と現代における最も優れたローマ史の専門家オゾリオ司教が言っている)、始め彼らに自由をゆるしてやったにもかかわらず、結局彼らをキリスト教に改宗させることができなかったので、今はただ、さきの同胞と同様に船子どもの掠奪に身を委せるつらさや、今まで大きな富をいだいて住みなれた土地を去って見も知らぬ異郷におもむかねばならぬつらさを思いしらせて、何とか彼らを改宗させようと、望んだのであった。 ところがこの希望は見ごとにはずれ、彼らがみな渡航の決心をしたのを見ると、王は始めに約束した三つの港の中の二つを閉鎖した。 そうすれば、渡航の永びくことやこれに伴ういろいろな不便を考えて、少なくとも彼らの幾人かはその決心を飜すであろう、いやむしろ、こうして彼らをすべて一カ所にまとめておけば、予定の事柄を実行するのにもすこぶる便利であろう、と考えたからである。 その予定というのはほかでもない。 王は、十四歳未満の幼な子を父母の手から奪い、親たちの眼も言葉も届かないところに連れてゆき、そこで我々の宗教を教え込んでやろうと思ったのであった。 伝えられるところによると、その結果は恐ろしい光景となって現われたそうである。 親子の間の自然の情愛や、旧来の信仰に対する熱情が、この乱暴な命令に抵抗したからだ。 いたるところに、われとわが命を絶つ父と母とを見た。 いや、もっと恐ろしかったのは、わが子可愛さいとしさの余りにこれを井戸に投げ入れ、そうやってまで命令を免れさせたことである。 でも、あらかじめ約束された期限がきれると、やはり彼らはやむなくもとの奴隷にかえった。 或る者はとうとうキリスト教徒になることはなったが、これらの人たちの・いや彼らユダヤ人の・信仰を、それから百年もたった今日といえども、心から本気にするポルトガル人はほとんどないのである。 長い月日と習慣とは他のいかなる強制にもまして力ある勧告者であるとはいえ。 キケロは言った。 我が大将達のみならず、雑兵の末にいたるまで、こぞって確実なる死におもむきしこと、そも幾度なりしぞや と *。 * ユダヤ人の信仰うすきを責めているのではない。 人は他人の信仰をかえようとして強請しても無駄であるというのである。 自分の信仰だけを守っていればよい、というのが、このパラグラフの真意である。 モンテーニュは、ルーテル派、カルヴァン派の折伏精神を非とし、自分はあくまでカトリックだと言いたいのである。 (b)わたしはわたしの親しい友人の一人が、まこと愛慕の情をもって、ひたすらに死に赴くのを見た。 その情は、わたしの力ではとうてい打ち倒すことのできないさまざまな論拠につちかわれて、彼の心の底に深くその根をおろしていた。 だから栄光を帯びた死がひとたび彼の前に立ち現われると、すぐさま、別に何という理由もないのに、激しく切に死に餓えていたかのごとく、その前に身を投じた。 (a)我々の時代にも、人々が、いやこどもさえもが、ごくささいな不快を苦にして自殺した例はいくらもある。 古人はこれについて、こう言っている。 「卑怯者がその隠れ家として選んだものまでこわがるなら、われわれにとってこわくないものは一つもあるまい」と。 こんにちよりも人々がもっと幸福だった時代に、平然として死んだとか死を待ったとか、または、ただこの世の苦しみを免れたいためばかりでなく、或いは単に生きるのに飽きあきしたとか、或いはより良い境遇をよそに得ようとか望んで、自ら進んで死を求めたとかいうような、貴賤男女あらゆる宗派の人々の名前を、ここによみ上げるような愚をわたしは決してしないだろう。 まったく、そういう人たちは数限りないのだから、死を恐れた者を数え上げる方がずっと気がきいていよう。 ただ一つだけ申すことにしよう。 哲人ピュロンは、或る大嵐の日にたまたま舟に乗り合せたが、自分の周囲で最も恐れ騒いでいる人々に向って、同じく船の中にあって少しもこの暴風雨に気をとられていない一頭の豚を指し示して、人々をはげました。 ということは結局、こう我々は言わねばならないことになるのではあるまいか。 すなわち「我々があんなに珍重するところの・そして我々が万物の霊長たるゆえんのものとして有難がるところの・その理性という特権は、 畢竟 ( ひっきょう )我々が自ら苦しむために授かったのか。 物事の知識が一体何の役にたとう? もしこれがあるためにかえってこれがなければ 享 ( う )けられる平静を失うのだとすれば。 そして、もしそれが我々をピュロンの豚よりもみじめなものにするのだとすれば。 せっかく我々は最大の幸福のために知性を授けられたのに、どうしてこれを自己を滅ぼすために用いるのか。 何だって、人は、おのれの道具方便をそれぞれの利益安楽のために用いるようにとのぞんでいる自然の意図・宇宙万物の秩序・に逆らうのか *」と。 * モンテーニュは、ここではまだピュロン説を支持していない。 むしろそれを疑っている。 彼はこのとき、なお純然たるストア学者であって、哲学が死を蔑視する上に有効であることを確信している。 次のパラグラフはこのストア主義に対するピュロン説の反駁である。 「なるほどね」と人はわたしに言うであろう。 「なるほど君の掟 *も死については役立つかもしれない。 だが貧乏についてはどういうことになるかね? 苦痛についてはどういうことになるのかね? (c)アリスティッポスやヒエロニュモスや (a)大部分の賢人たちは、これを最大の悪と見なしたではないか。 それを口先では否定していた人たちも、行為の上ではこれを肯定したではないか」と。 ポセイドニオスが激烈な病に苦しみ悶えているところにポンペイウスが訪ねて来て、「これは悪い時に哲学の教えを聞きに参りました」と詫びたところ、「いやとんでもない。 わしはそれほど苦痛に参ってはおらんよ。 いつものとおり哲学を講ずることができるよ」とポセイドニオスは答えるや、早速苦痛の蔑視という問題について 滔々 ( とうとう )とやり出した。 けれども、その間も苦痛はその役目を演じており、絶えず彼を折檻していた。 それで彼はこう叫んだ。 「なかなかやるな、苦痛よ。 だが苦痛は悪なりとは、どうあっても言わないぞ」と。 この話は人々がよく引合いに出すものであるが、果してそれは、彼が苦痛を蔑視したことの証拠となっているか。 それはただ言葉の上の論議にすぎない。 もしこの時これらの刺激が全く彼を動かしていないとすれば、なぜ彼は講演をとぎらせたのか。 なぜ苦痛を悪と呼ばないと、さもえらそうに言っているのか **。 (オウィディウス) 百千の動物、百千の人間は、あなやと思う間もなく死んでしまう。 いやまったく、我々が死において、もっぱら恐ろしいと言っているのは、いつもその前ぶれをする苦痛なのだ。 (c)だがある教父の言ったことが本当だとすれば、 死はその後に来るものによってのみ不幸なり (聖アウグスティヌス)なのだが、それよりか、「先にゆくものも後に来るものも、共に死の属性ではない」と言う方が真に近いように思われる。 我々の弁解 *は嘘である。 いや、わたしの経験では、やっぱり死を想うことが堪えがたいからこそ、いっそう苦痛が堪えがたいものになるのだ。 苦痛が死をもっておどかすからこそ、我々は苦痛を二倍にもつらく感ずるのだ。 けれども理性がかくも唐突な、かくも不可避な、かくも非感覚的なものを恐れるのは卑怯だとあまりにくさすものだから、やむをえず我々は、もう一方の幾分か許してもらえそうな口実 *をとることになるのである。 * 「死を恐れるのは、これに伴う苦痛のせいだ」「死がこわいのではなくて苦痛がいやなのだ」という弁解は嘘であり口実にすぎぬ。 ただ苦しいだけで他に危険のないすべての病気を、我々は危険のない病気と呼ぶ。 歯の痛みや足腰の痛みは、どんなに痛くても命取りではないから、誰もこれを病気の中に数えないではないか。 だが、まあよい。 ここでは一応、我々は死の中に主として苦痛を見るのであるということにしておこう。 (a)例えば貧乏にしても、ただそれが飢えや渇きや暑さや寒さや不眠などによって我々を苦痛の腕のうちに投ずればこそ恐れられるので、その他には、何もこわいところはないのである。 そこで、ただ苦痛だけを問題にしよう。 わたしもまた、それが人生最悪の不幸であるとすることに賛成する。 喜んで賛成する。 まったくわたしは、今までのところは、有難いことに、あまり苦痛とは御縁がなくているけれども、それを最も忌み嫌い、それを最も避けたがる男なのである。 だが、我々は、これを絶滅することはできなくても、これを忍耐によって軽減することができる。 肉体はこれによってかき乱されても、霊魂と理性とは良い状態のうちに保つことができる。 いや、そうでなかったら、誰が我々の間で、徳や勇気や我慢や太っ腹や覚悟を、重んじたであろうか。 もし 挑 ( いど )むべき苦痛がなくなってしまったら、それらは一体どこにその役目を演ずるであろうか。 徳は危険に飢えつつあり (セネカ)。 もし堅い地上に寝たり、物の具に身をかためて南の国の暑さに堪えたり、馬や驢馬を殺して飢えをしのいだり、その身を切り開かれ骨の間の 弾丸 ( たま )を抜かれたり、さらに縫ったり焼いたり消息子を入れられたりするのに堪える必要がないならば、いったい何によって我々は凡俗にまさろうとしてまさることができるか。 苦痛を避けるどころの話ではない。 賢人たちはこう言っている。 「同じように立派な行為のうちもっとも苦痛を多く蔵するものこそ、特にしたいと願われる行為である」と。 (c) 我々の幸福は軽佻の伴侶たる歓楽嬉戯の中にあらず、むしろ悲痛の中にいながら我慢してそれに堪えるにあり (キケロ)。 (a)だからこそ、我々の父たちは、「戦争の危険の中に武力によってえた征服は、狡知によって安全の中になされるそれに及ばない」などということを、ついに承服することができなかったのである。 (ルカヌス) それに次のことは我々を慰めるにちがいない。 すなわち、本来苦痛は、激しければ短く長ければ軽いのだ。 (c) それ激しければすなわち短く、長ければすなわち軽し (キケロ)。 (a)君がそれをひどく感ずる時は、そう長くそれを感ずることはあるまい。 それは自己を終らせるか君を終らせるだろう。 どっちにしても同じことになる。 (c)君にそれが背負い切れなければ、それが君を背負ってゆくだろう。 思いおこせ。 死は大いなる苦痛を終らせることを。 小さき苦痛ははなはだ 間歇 ( かんけつ )的なることを。 しかして我らは、大きくも小さくもなき苦痛にはよく勝つことを。 されば軽ければ我らはそれを負うにたえん。 堪え難ければ、劇場を出てゆくがごとく人生を退出し、その苦しみを免れうべし (キケロ)。 (a)我々が苦痛をそのように堪えがたく思うのは、我々が我々のおもなる満足を霊魂のうちに求めるのに慣れていないからである。 (c)霊魂に十分に頼らないからである。 霊魂こそ、我々の境遇や行為の唯一至上の主人であるのに。 肉体は、程度の差こそあれ、一つの歩み方、一つのありようしか持たない。 霊魂の方はいろいろな形にかわり得る。 そして自分に、それがどんなものにしろ、とにかく自分の支配に、肉体の感覚やその他外界の出来事を従わせる。 だから、まず霊魂を研究し調査し、そこにその全能な弾力をよびさまさなければならない。 理屈も命令も暴力も、霊魂の傾向選択には、とうてい抵抗しえないのである。 霊魂が思いのままになしうるところの幾千のあり方の中から、我々の安静と存続とに最も適する一つをそれに許すならば、我々はたちどころにあらゆる危害からまもられるばかりでなく、ときには危害や災難からも愛撫されたりへつらわれたりする。 霊魂はどんなものをも無差別に利用する。 まちがった思想も夢のような考えも、彼にはりっぱに役に立つ。 いずれも、我々をまもり我々を満足させる忠実な素材となるのである。 我々の苦楽を鋭くするのは我々の精神の鋭利さであるということは見やすいことだ。 畜類は、その精神を鼻輪の下につながせておき、その自由自然な諸感覚の方は肉体に委せきっている。 したがって、それらの感覚はどの獣においてもほとんど一様である。 それは同じような彼らの動作によってもわかる。 もし我々も我々の諸器官において、当然それらに属している権能を妨害しないならば、我々はもっと幸福であろうと信ぜられるし、自然はそれらの器官に、快楽に対しても苦痛に対してもそれぞれ最も中正な度合いを与えたとも信ぜられる。 いや、自然は中正ならざるを得ないのである。 それは平等一般なのであるから。 けれども我々はすでにこの自然の掟をふり切って、我儘勝手な我々の空想に身をまかせてしまっているのだから、せめてそうした空想を最も愉快な方向に向けるように努めようではないか。 プラトンは我々が苦痛と快楽とに余りにとらわれすぎていることを心配している。 それではあまりにも霊魂を肉体に縛りつけることになると言うのである。 だがわたしはむしろ反対だ。 両方をひき離すことこそ心配なのである。 (a)ちょうど敵が我々の逃げるのを見るとますますたけり立つように、苦痛もまた我々がその前に震えるのを見るといよいよ威張る。 苦痛は、それに抵抗する者の前には、案外やさしい条件で降伏するであろう。 是非ともそれに対して対抗し威張らなければならない。 退 ( ひ )けば退くほど、恐ろしい破滅をわが身の上に招きよせることになる。 (c)肉体は力を籠めて立ち向う場合はそれだけ堅固であるが、霊魂もそれと同じである。 (a)だが実例に移ろう。 この方が、わたしのように脚の弱い人間が追いかけるのにふさわしい獲物 *である。 そうした実例を見れば、我々にも、苦痛はちょうどそのはめられる台のいかんによって光ったり光らなかったりする宝石みたいなものであるということや、それはわれわれがこれに与えるだけの場所しか取らないものだということが、わかるであろう。 苦しと思えば思う程、彼らの苦しみはいやまさりき と聖アウグスティヌスは言っている。 我々は外科医のメスの一突きを、戦いたけなわな時の十太刀以上にも感じる。 分娩 ( ぶんべん )の苦しみは、医者にも神様にさえも大きな苦しみと見なされており、また我々がああいう物々しさをもってやっとすますものであるが、それを上下を通じて一向に気にとめない国民がある。 ラケダイモンの婦人たちのことはしばらくおく。 だが、わが歩兵どもの間に立ちまじるスイスの女たちをごらん。 ラケダイモンの婦人たちとどれ程のちがいがあるか。 ただその夫の後を小走りについてゆく彼女たちは、つい昨日までその腹にかかえていた赤ん坊を、今日はもうその胸に抱いているというだけのことだ。 それから、我々の間にちょいちょい見受けられるあの醜い 形 ( なり )のジプシーの女たちは、もよりの河に行って産んだばかりの赤ん坊を自分で洗い、自分もそこで水浴をする。 * 獲物というと獲たものという風に日本語の慣用は解釈させるが、フランス語の慣用では狩猟の目的物という意味にとられる。 すなわちここでは、「虎や猪などのような大物」でなく、「自分のような弱虫の手にもおえる獲物、せいぜい兎か鴨ぐらいのもの」を想像させる。 推理論証はむつかしくて手におえないから、自分は哲学者ではないのだから、これから実例をならべようというのである。 (c)毎日こっそりと子供を身ごもったりおろしたりするあのいたずら娘ばかりではない。 ローマの貴族サビヌスの貞淑な夫人なども、他人に迷惑をかけまいとして、じぶん独りで、人手を借りずに、いや声も立てなければ 呻 ( うめ )き声ももらさないで、立派にふた児を産みおとした。 (a)ラケダイモンの名もない一少年は、狐を一匹ごまかしたが、それをマントの下におし隠して、発見されまいと、腹を噛まれても我慢した(まったく彼らが盗みそこねて恥をかくのを恐れることは、我々が刑を恐れる以上であった)。 またもう一人の少年は、 犠牲 ( いけにえ )の前に香をたいたとき火がその袖の中に落ちたが、儀式をさわがすまいとしてそのままその身を骨まで焼かせた。 いやたくさんの少年たちが、ただその国の教育が課する徳の試しのために、やっと七歳になるかならずで、少しも顔色を変えることなく、死に到るまで鞭うたれるのに堪えたのである。 (c)またキケロは彼らが敵味方にわかれて相戦うのを見たが、打ったり蹴ったり噛んだりしながら、気を失って倒れても、いっかな参ったとは言わなかったといっている。 習慣はとうてい自然に勝ちえざるべし。 けだし、自然は無敵なればなり。 されど我々は、軟弱・享楽・無為・怠惰・放縦等によりて我々の気魄を腐らせたり。 我々はあやまれる考えと悪しき習慣とによりてそれを軟化させおわれり (キケロ)。 (a)人はみなあのスカエウォラの物語を知っている。 彼は、敵の大将を殺そうと思ってその陣屋に忍び込んだが、惜しくもこれを討ちもらしたので、もっと変った 謀 ( はかりごと )を用い、もう一遍やり直しをして祖国を救おうと思い、目ざす敵王ポルセナに向って、ただ自分の計画を明かしたばかりでなく、味方には自分と同じような・自分と志を同じくする・ローマ人がたくさんいる旨を言いそえた。 そして、自分がどのような者であるかを示すためにまっかな炭火を持って来させ、そこに自分の腕が焦げ焼けるのを平気で眺めていたので、とうとう敵の方がこわくなり、命じてその炭火を除かせた。 何と言ったらよかろうか、その身を切り開かれながら書見をやめようともしなかったあの人のことを。 それからまた、いくら拷問を加えられても頑固にそれをあざ笑って譲らず、彼を引きすえていた刑吏のいら立った残酷の方が、また、あとからあとからと加えられた責苦の工夫の方が、とうとう 兜 ( かぶと )をぬいだというあの人 *のことを。 だがそれは哲学者であったと申されるか。 では次の例はどうか。 カエサルの一剣優がその傷をさぐられ、切り開かれながら、依然として笑いながら堪えたことを何と見られるか。 (c) 単なる一介の剣優といえども、呻き声をあげ顔色を変えることなきにあらずや。 向き合える時は勿論倒れんとする時にさえ、卑怯の振舞いを見せしことなきにあらずや。 そのとどめを刺されんずる時にさえ、その喉をそむくるを見しことありや (キケロ)。 (ティブルス) (a)わたしは、砂や灰を飲み、ほどよく胃を害することにつとめ、わざと青白い顔色になろうとするものを見たことがある。 すっかりスペイン風の姿になるためには、大きな 緊 ( し )め木を肉に食い入らんばかりに脇腹にあてがい、緊めたり膨らませたり、どんな苦しさに彼女らは堪えないか。 堪えるとも! そのために死ぬことさえもあるというのに! (c)わざとおのれの身に傷をつけて自分の言葉に偽りのないことを信じさせるのは、現代の多くの国民の間で至極普通なことである。 我々の王〔アンリ三世〕は、その著しい実例をいくつか物語っていられる。 かつてポーランドにおいて、彼おん自らのためにそのようなことが行われたのを御覧になったのであるから。 けれどもわたしは、それがフランスでもたれかれに真似されたのを知っているばかりでなく、一人の少女 *が、その熱烈な約束とその変らぬ心の証しとして、髪にさしていたピンを引き抜き、これをしっかりと、五度も六度も、その腕に突きさし、そのためにほんとうに皮膚がやぶれて血潮のほとばしるのを見たことがある。 トルコ人はその女のために、わが身に大きな 疵 ( きず )をつける。 そして、その痕が残るようにと、すぐその上に火をのせ、信じられないほど長い間それを消さずにおく。 やがて血が止って瘢痕が残るように。 これを実見した人たちは、わたしにその話を書いてよこし、かつそれをほんとうのことだと断言した。 しかし、十アスペルも出せば、その腕や股にずいぶん深い疵をつけるものが、彼らの仲間にはいつでも見つかるのである。 * 一五九五年版には「ピカルディの一少女」となっている。 そうすると、これはグルネ嬢のことではないかと推測される。 拙著『モンテーニュとその時代』第七部第四章五九一頁参照。 (a)うれしいことに、証人は、それを必要とする時には、いくらでも出て来る。 まったくキリスト教徒はそういう実例をふんだんにわれわれに提供しているのである。 実に我々の聖なる指導者〔キリスト〕にならい奉って、信心から十字架を負おうとした者は 夥 ( おびただ )しくあった。 我々は、大いに信ずるに足りる実見者 *の伝えるところによって知っている。 聖ルイ王が、年老いてその懺悔僧からゆるしをえられるまで、苦行用の毛襦袢をお脱ぎにならなかったことを。 また金曜日ごとに、とくにそのために箱に入れて帯びていられた五条の鉄鎖をもって、その牧師をしておん肩をうたしめられたことを。 我々の最後のギュイエンヌ公、この公領 **をとうとう英仏両王家にお譲りになったあのエレオノールの父君ギヨームも、その晩年の十年ないし十二年の間、苦行のためとて僧衣の下に始終鉄の鎧を着ておられた。 アンジュー侯フールクは、はるばるとエルサレムまでおいでになり、おん首に縄をまとい、主の御墓の前に 跪 ( ひざまず )き、下僕の二人をして御身を鞭うたしめられた。 けれどもそれは昔だけの話ではない。 今でも聖金曜日には、所々方々で多くの善男善女が、肉がやぶれて骨の現われるまで、その身を鞭うたせているではないか。 わたしもそれはしばしば見たけれども、ちっとも感動はしなかった。 きくところによれば(まったく彼らは覆面をしてゆくのである)、中にはお金を貰って、それで他人の信心を請け負う者もいるということだけれど、苦痛の蔑視もここまで来ると、信心の欲求の方が金銭の欲求よりもずっと強いものだと知っているだけに、ほとほと感心させられる ***。 *** 信心のためならまだわかる。 信心の刺激は貪欲のそれよりも一層つよいものだから。 ただ、金ほしさにこれ程の苦痛をしのぶということは、モンテーニュをほとほと感心させたのである。 前出の女たちが美のために歯を抜かせたりする話と同様に。 なお白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の中にこの種の苦行者の行列を見た記事がある。 「旅日記」索引「苦行会員」の項参照。 (c)クイントゥス・マクシムスは執政であるその息子を、マルクス・カトーは奉行に任命されたその息子を、またルキウス・パウルスは二、三日の間に二人の息子を、いずれも少しも悲しみの色を帯びない平気な顔付で埋葬した。 わたしはこのあいだ或る人について、「あの人は神の裁きを失敗におわらしたよ」と冗談を言った。 だって、三人の立派な息子の急死がただ一日の内に、どうやら恐ろしい鞭の一撃として、彼の許に知らされたらしいのに、もうすこしで彼は、それを神様の恵みのように受けとろうとしたのである *。 いやわたしも、それは里子の頃のことではあるが、子供を二人か三人失ったことがある **。 惜しいと思わないではなかったが、少なくとも嘆き悲しむことはしなかった。 でも、これくらい人間の心を深くつくものも、そう滅多にないのである。 なおこの他にも、世の人がひとしく悲しむことであって、しかもそれがこの身に降りかかろうとも、ほとんど平気でいられるであろうと思う事柄がある。 実際わたしは、そのあるものがわたしの許に到来した時、とうとうそれを無視してしまったが、それは世間の人たちがはなはだこわがるものなんで、そのことだけはさすがのわたしも、赤面せずに威張って皆に披露する気にはなれないのである ***。 之 ( これ )をもって之を見れば、悲哀は物の本性より来るにあらずして、人々の考え方より来るものなりと知らざるべからず (キケロ)。 *** この句はモンテーニュ夫妻の間柄について或る種の想像をゆるす。 年表一五六九年の項参照。 また『モンテーニュとその時代』第四部第二章参照。 (b)人間の考えというものは大胆で限りのない、一つの強力な 性能 ( ちから )である。 かつて誰が、アレクサンドロスやカエサルが心配や困難を求めた時ほどの飢え渇きをもって、安穏と安泰とを願ったことがあるか。 シタルケスの父テレスはよく言ったものである。 「戦争をしていない時は、自分と馬丁との間に何の相違もないと思う」と。 (c)執政のカトーがスペインの或る都市の治安を確保しようとして、住民たちに武器を帯びることを禁じたところ、ただそれだけのために大勢のものが自殺した。 それは 武器なくしては生きるも甲斐なしと考える勇猛なる民 (キケロ)であったから。 (b)我々は知っている。 いかに多くの人々が、自分の家でその近親にとりまかれながら営む静穏な生活のたのしさを避けて、わざわざ人住まぬ広野の恐ろしさを追い求めているかを。 また、自ら卑賤に身をおとし世を捨て、かえってそういう生活を心から請い求めているものさえ随分たくさんあることを。 つい先頃ミラノでみまかられた枢機官ボロメオは、その爵位やその巨万の富や、またイタリアの天地やその若さなどから考えれば、いかにも享楽の巷へ誘われがちであったかと思われるが、彼はそういう境遇にありながらも己れを持することがきわめて厳格で、夏冬その衣をかえなかったし、寝るにもただ藁屑を敷くばかり、公務の余暇にはただ跪いて勉強ばかりしていられた。 ごく僅かの水とパンとが書物の傍におかれるだけ。 実際、食べるものといえばただそればかりで、暇という暇はみな勉強のために用いられたのである。 それからまた、噂をたてられるだけでも多くの人々がぞっとするコキュ *に、わざと自分からなり果て、金を巻上げたり立身のたよりをえたりした男も、わたしは知っている。 視覚は我々の感覚の中で最も必要なものではないにしても、少なくとも最も楽しいものである。 だが、我々の器官の中で最も快適で有用なものといえば、生殖に役立つところのそれであろうと思う。 ところが多くの人たちは、それを、ただあまりにも快適だという理由だけで、非常に忌み嫌った。 そしてその価値のためにかえってそれを排斥した。 自分で自分の眼をえぐった者は、眼に対して同様の考えを抱いたのである。 * 細君に不行跡をされて知らずにいる二本棒の亭主のことをコキュという。 ここでは、わざと細君を 囮 ( おとり )にして間男から金をまきあげる亭主のことを言っている。 (c)大多数の最も健康な人たちは、子だくさんであることを大きな幸福と考えているが、わたしはほかの幾人かの人々とともに、それがないことを、同じく幸福だと考えている。 いや、誰かがタレスに向って「なぜ結婚しないのか」と聞いたとき、彼は「子孫をのこすことを好まないから」と答えている。 我々の考え方が物事に価値をつけるのだということは、われわれが多くの場合それらのものそれ自体を評価しようとして見るのではなく、むしろそれらを我々との関係において見ようとしていることによってわかる。 いや我々は、それらの性質をも効用をも考えてはいない。 ただそれらを得るためにはどれ程の犠牲費用を要するかということばかり考えている。 あたかもそれがそれらの物の本質の一部ででもあるかのように。 そしてそれらの物において、それらが我々にもたらすものではなしに、かえって我々がそれに投ずるところのものを、価値と呼んでいる。 そこでわたしは、我々が出費にかけて甚だけちであるわけを理解する。 出費はそれが辛ければつらい程、役に立たねばならぬと思っている。 我々の考えは、決してその出費がそれだけの役に立たずに終ることを黙ってはいない。 買値が金剛石に折紙をつける。 困難が徳行に、苦行が信心に、苦さが薬に、値うちをつける。 (b)誰かが清貧になろうと思ってお金を海に投げ入れる。 かと思うとたくさんの人々がその同じ海を、その中からお宝を釣りあげようとかきまわしている。 エピクロスは言っている。 「富むということは重荷をおろすことではなくて、それを取りかえることである」と。 真実、 吝嗇 ( りんしょく )を生むのは赤貧ではなく、むしろ富裕である。 わたしはこの事をめぐって、自分の経験を語ろうと思う。 わたしは、少年時代を終えてから、三とおりの境遇のうちに生きて来た。 第一期はほぼ二十年ばかり続いたが、わたしはその間を、元手といえば不時の収入の外にはなく、ひたすら他人の指導と援助とに頼って過した。 きちんとした勘定もしなければ予算も立てなかった。 すべてを運命のなすがままにまかせていたから、わたしはそれだけ愉快に、それだけ心配せずにお金を使った。 その頃くらいよい時代はなかった。 友人たちの財布の紐が締まるのを見るようなことは、一度もなかった。 わたしは他のどんな義務よりも、返済の時をたがえない義務をきびしく自分に課していたからだ。 皆はその期日を幾度となく延ばしてくれた。 わたしが一所懸命に彼らを満足させようと努めていることがわかるからだった。 つまりわたしは、ちびちびと、いわばけち臭く、どうやら義務を果したというわけである。 わたしは生れつき支払うことにいくらかの快味を感ずる。 ちょうど自分の肩からいやな重荷をおろすような・また奴隷の衣を脱ぐような・気がするからである。 いや、正しいことをして人を満足させるというところに、わたしの心をくすぐる若干の満足があるからである。 だが、値切ったり駈け引きをしたりしなければならないような支払いだけは別である。 まったく、そういう役目を任せる人が見つからないと、恥ずかしいこと、ふとどきなことだが、わたしはそれをできるだけ延ばすことにしているのである。 わたしの性格といい弁舌といい、全然相容れないあのいがみ合いがいやだからだ。

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マツコ・デラックスの「死にもの狂いで3年働け」に反発の声 「今の時代は本当に死ぬ」

僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある

マザー・テレサの生涯 1910年8月26日、マザー・テレサ(アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ)はオスマン帝国ユスキュプ(現在の北マケドニア共和国スコピエ)に3人兄弟の末っ子として生まれる。 母はルーマニア人、父はルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人であった。 父は手広く事業を営む地元の名士であり、アルバニア独立運動家でもあった。 またカトリック教徒であった父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。 父はアグネスが9歳のときに急死している。 アグネスは聡明な子で12歳のころには将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたという。 18歳のときにアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドで女子教育に力を入れているロレト修道女会に入る。 1931年、21歳のアグネスは修練女としてインドのダージリンに赴いた。 初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。 テレサは1947年までカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で地理と歴史を教える。 34歳のときには校長に任命されている。 上流階級の子女の教育にあたりながらも、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。 1946年9月、36歳のテレサは休暇のためダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。 1948年、ローマ教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られ、テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。 テレサは学校に行けないホームレスの子どもたちを集めて街頭での無料授業を行うようになる。 やがて教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになった。 1950年、テレサは40歳のときに「神の愛の宣教者会」を設立。 同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。 テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。 インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設。 以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。 1969年、アメリカ人が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神さまのために』や同名の書籍によって、テレサの活動は全世界で知られるようになった。 その活動は高く評価され、多くの賞がテレサに与えられた。 1979年にはノーベル平和賞を受賞している。 1997年9月5日、マザー・テレサはカルカッタにて87年の生涯を閉じた。 宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として荘厳に行われた。 2016年9月4日、ローマ教皇フランシスコはテレサを列聖し、聖人であると宣言した。 それでも許しなさい。 人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。 それでも人にやさしくしなさい。 成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。 それでも成功しなさい。 正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。 それでも正直に誠実でいなさい。 歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。 それでも作り続けなさい。 心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。 それでも幸福でいなさい。 今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。 それでも善を行いを続けなさい。 持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。 それでも一番いいものを分け与えなさい。

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ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne 関根秀雄訳 モンテーニュ随想録 ESSAIS DE MONTAIGNE 第一巻

僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある

Novis 2016 Novis 2016 目次• ・・・・・ 星乃治彦(人文学部長)• ・・・・・ 間ふさ子(中国近現代文学)• ・・・・・ 青木文夫(スペイン語)• ・・・・・ 浦上雅司(西洋美術史)• ・・・・・ 遠藤文彦(フランス文学)• ・・・・・ 大津敦史(英語教育学)• ・・・・・ 甲斐勝二(中国学)• ・・・・・ 梶原良則(日本史)• ・・・・・ 勝山吉章(教育史)• ・・・・・ 紙屋正和(東洋史)• ・・・・・ 鴨川武文(地理学)• ・・・・・ 高妻紳二郎(教育行政学)• ・・・・・ 小林信行(哲学)• ・・・・・ 堺雅志(ドイツ・オーストリア文学)• ・・・・・ 白川琢磨(文化人類学)• ・・・・・ 武末純一(考古学)• ・・・・・ 田村和彦(文化人類学)• ・・・・・ 辻部大介(フランス文学)• ・・・・・ 徳永豊(支援教育学)• ・・・・・ 冨重純子(ドイツ文学)• ・・・・・ 永井太郎(日本文学)• ・・・・・ 則松彰文(東洋史)• ・・・・・ Stephen Howe(英語学)• ・・・・・ 平田暢(社会学)• ・・・・・ 平松智久(ドイツ文学)• ・・・・・ 広瀬貞三(朝鮮史)• ・・・・・ 馬本誠也(英文学)• ・・・・・ 光冨省吾(アメリカ文化・文学)• ・・・・・ 森茂暁(日本史)• ・・・・・ 山縣浩(日本語史)• ・・・・・ 山田英二(英語学)• ・・・・・ 山田洋嗣(日本文学)• ・・・・・ 山中博心(ドイツ文学)• ・・・・・ 山根直生(中国史) Novis 2016 本文 人文学部新入生のみなさんへ 星乃治彦(人文学部長) 最近コンシエルジュという言葉をよく耳にするようになりました。 初めて聞く人もいるかも知れませんね。 コンシエルジュ(concierge)はフランス語で、本来は「アパートの管理人」程度の意味だったのですが、今の日本では、ホテルに入ってどこに何があるのだろうといった質問に丁寧に教えてくれる総合世話係のような人のことを指すようになっています。 この小冊子に収められているのは、福岡大学人文学部の教員たちが、諸君らを心から歓迎する意味で、いわばコンシエルジュとなって授ける最初の知的アドヴァイスです。 諸君らはワクワクする知的好奇心を満たすために大学に入っているのでしょうし、人文学部を選んだということは、何かやりたいことを決めた人も多いかも知れませんね。 そんな諸君らに、大学の入り口で読むべき本がここでは丁寧に紹介されています。 ここに紹介されている本をちょっと読んでみようかなあと思ったら、日本有数の蔵書数を誇る福大図書館に足を運んで下さい。 使い方が分からないのであれば、入口の職員さんに尋ねてみましょう。 図書館ツアーに参加するのも良いでしょうねえ。 そうやって自分の問題関心をすくすく育ててみましょう。 それを積み重ねていけば、諸君らは卒業までには人生の確固たる羅針盤を手にすることになるのでしょう。 映画の字幕 間ふさ子(中国近現代文学) 外国映画を見るときになくてはならないものが字幕です。 映画では目からの情報だけでなく、言葉や音楽など耳からの情報も大きな役割を果たしていますが、言葉が外国語だと何を言っているのかわかりませんよね。 それを解決する主な方法は吹き替えか字幕ですが、日本ではまだまだ字幕が主流のようです。 字幕翻訳監修業という職業の草分けである清水俊二さんの『 映画字幕 (スーパー)五十年』や『 映画字幕 (スーパー)の作り方教えます』を読むと、日本における字幕スーパーの歩みを知ることができます。 字幕と聞いてすぐに思い浮かぶのが、この清水俊二さんや戸田奈津子さんなど字幕翻訳者の存在です。 語学を志す人で字幕翻訳者にあこがれたことのない人は少ないのではないでしょうか。 自分の作った字幕がなければ観客たちは作品を十分に鑑賞できないのです。 しかも一行わずか一〇文字で台詞のエッセンスを表現しなければなりません。 責任は重大ですが、やりがいもあるというものでしょう。 戸田奈津子『 字幕の中に人生』、太田直子『 字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』『 字幕屋に「、」はない』など、字幕翻訳のエピソードを綴った本は何冊かあり、いずれも興味深いものです。 また、前述の清水俊二さんの著書や高三啓輔『 字幕の名工 秘田余四郎とフランス映画』を読めば、字幕翻訳者の生涯を通して二〇世紀の日本と日本人の姿が、外国映画の受容という側面から浮かび上がってくるでしょう。 しかし、翻訳者だけでは字幕は出来ません。 字幕を作るには昔も今も技術者の熟練の技が不可欠です。 かつて字幕がどのように作られていたのかを知るには、神島きみ『 字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』がうってつけです。 また、太田直子『 字幕屋のニホンゴ渡世奮闘記』を読めば、現在の字幕制作のプロセスがよくわかります。 これらの本は、映画が工業技術に支えられた芸術であることを改めて教えてくれます。 現在では、デジタル映像であれば、素人でも専用のソフトを使って字幕制作にトライすることができます。 東アジア地域言語学科では、字幕制作ソフトを利用した語学の授業を行うほか、有志で一九五〇年代、六〇年代の中国映画・韓国映画の秀作に日本語字幕をつけ、市民のみなさんに鑑賞していただくという活動を行っています。 これまでにみなさんの先輩たちが、中国映画『 白毛女』('50)、『 家』('56)、『 花好月圓 (はなはよしつきはまるし)』('58)、『 五朶金花』('59)、『 我們村裡的年軽人(村の若者たち)』('59)、『 今天我休息(本日非番)』('59)、『 李双双』('62)、『 我們村裡的年軽人・続集(続村の若者たち)』('63)、『 錦上添花』('62)、韓国映画『 青春双曲線』('50)、『 運命の手』('54)、『 三等課長』('61)、『 ソナギ(通り雨)』('78)などに字幕をつけました。 今年も九月の発表会に向けて準備を進めています。 二〇一三年からは、この字幕制作で力をつけた卒業生二人が、アジアフォーカス・福岡国際映画祭に依頼され、最新の中国映画『 目撃者』(二〇一二年)、『 殯棺』(二〇一四年)、『 黒処有甚麼(闇に潜む)』(二〇一五年)の字幕制作を行って好評を得ています。 清水俊二『映画字幕 (スーパー)五十年』早川文庫、一九八七年 清水俊二『映画字幕 (スーパー)の作り方教えます』文春文庫、一九八八年 神島きみ『字幕仕掛人一代記 神島きみ自伝』パンドラ、一九九五年 戸田奈津子『字幕の中に人生』白水Uブックス、一九九七年 太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』光文社新書、二〇〇七年 高三啓輔『字幕の名工 秘田余四郎とフランス映画』白水社、二〇一一年 太田直子『字幕屋のニホンゴ渡世奮闘記』岩波書店、二〇一三年 太田直子『字幕屋に「、」はない』イカロス出版、二〇一三年 小林隆宏君のこと 青木文夫 (スペイン語) 毎年色んなことに興味を持つ筆者が昨年とくに嵌ったのが「糖質制限」という食習慣。 何せ、今までダイエットはしたことがないし、アルコールも思いのままなので、現在の体重は八十ウンキロ。 誰が見ても優良肥満児であるが、趣味がエアロビクスやダンス系レッスンなので、かろうじて血糖値はHbA1cで5. そんなある日、近親者でかなり重い(HbA1cが10を超える)2型糖尿病が判明し、治療を受けることになった方がいたのですが、その方が糖質制限に取り組み、血糖値を下げる薬を飲まずに、HbA1cを7. 0以下に約半年で下げたのでした。 詳しい糖質制限のやり方は末尾に挙げた先生方のサイトや著書を読んでもらうことにして、僕の場合を簡単に説明しておきます。 基本は、糖質やそのもとになるデンプン質や炭水化物を極力とらないことです。 これだけですが、それに加え次のことを守ると効果的です。 「オメガ3系(亜麻仁油など)とオメガ9系(オリーブオイルなど)の油脂を中心にとる」「トランス脂肪酸はとらない」「発酵食品(発酵バターも良い)を多めにとる」あとはMECを中心の食生活にする。 MはMEAT、EはEGG、CはCHEESEです。 それにアルコールは糖質が少ないものであれば自由(もちろん肝臓を壊さない範囲で)。 肉などの動物性脂肪は気にしなくてもよいのです。 さきほどの糖尿病の方は、主食のお米などの炭水化物をそれまでの三分の一以下にし、当然清涼飲料水や糖質を含む食品は殆どカット、肉や魚中心のおかず多めの食事にして、その成果です。 僕の場合、炭水化物で困るのは好物の「お蕎麦」だけで、これを今までよりも少なめにして、あとは先ほどの方とほとんど同じ、アルコールの量も変わりません。 そして、糖質制限のポイントはカロリーを気にしなくてよいということで、これについてはケトン体の話しを理解しないといけませんが、ここで書くと数頁使ってしまうので、参考に挙げた本を読み、関係サイトを参照していただきたいと思います。 糖質制限については、従来のバランス良い食習慣でカロリー制限を中心にした糖尿病コントロールの立場の医師と、糖質制限を支持する医師との間で未だ論争がありますが、僕が正直に感じたのは、糖質制限に一理あるのかなということで、成否は歴史が証明してくれると思います。 そして、僕が糖質制限を始めたのは、ある思いからです。 小林隆宏君、享年四十歳余。 上智大学文学部仏文学科中退。 死因、糖尿病合併症。 昨年は僕の人生に大きな影響を与えた方の思い出を学生諸君にもその生き方を参考にしてもらおうという一文をしたためましたが、今回は反面教師の代表というべきではあるが、大親友だった彼とのことを書いて、人生と言うのは何とも不思議なものだなあという思いを残しておきます。 高校から大学を通じての親友は、学生運動を一緒にやった連中か、音楽仲間か、飲む・打つ(買うはなかった?ので念のため)に興じた連中が殆どで、小林君はその中でもT君、F君、I君あたり(他はまだ存命)以上に、僕との十数年を駆け抜けて先にあの世に逝ってしまい、僕の拙い馬券に苦言を呈しようと、麻雀牌も準備して待つことになってしまったけど、僕がなかなか逝かないので、寂しい思いをしていると勝手に思っています。 上智大学での一年先輩。 宇都宮出身。 出会いは、学内にある学生寮への僕の入居当日。 名古屋から別に送っていた荷物を整理し、一服つけていると、とりあえず同室になる奴も到着。 邪魔になってはいけないと、挨拶も早々に学内(寮は大学内)や寮内をぶらぶらしていると、寮に娯楽室があるのを発見。 覗いてみると、すでに2卓ほどたっている。 後ろから観戦していると、「打てるの」という問いかけに「なんとか」と腕に覚えのあるところを抑えて答えたのが最初の出会いであった。 名前も告げて、夕方寮の新入生のガイダンスが終わり、部屋で何人かの新入生と歓談していると、「青木、面子足りないけどできる」といきなりお声がかかる。 娯楽室へ行き、他の面子のT君(2年)、Y君(3年)と言葉を交わすと「五十円のゴットーでいい」との問いに、「麻雀の面子には苦労しないし、レートもまあまあで遊べるし」とほっとした気持ちになって、十時近くまで打って、お開きになると、小林君が「飲みに行こう、奢ってやる」とのことで、四谷の新道(しんみち)の外れにある居酒屋「駒忠」へ。 当時一杯八〇円だった燗のコップ酒をぐいぐいやりながら、「一年次にはほとんど単位をとれてないこと」「仏文学科には三十二単位制の関門があること」(これはイスパニア語学科にもあった) 1「俺は勉強に向いてないけど、お前はそっちも手を抜かないように」などといったことを話し、寮に帰ったのは深夜二時過ぎ。 充実した大学生活一日目を過ごすことができたのであった(同室には若干迷惑をかけたにちがいないが)。 これにイスパニア語学科では、必修のスペイン語を二年続けて落とすと自動的に退学と言う、もっと厳しい制度があった。 当時は七〇年安保の影響がまだ続いていて、多くの大学でストライキがあり、ロックアウトという大学の閉鎖も行われていた。 上智も例外ではなく、僕が入学する前年度にロックアウトがあり、大学の周りには高い塀が建てられ、出入りは二か所の通用門で、学生証を提示しないと学内に入れないという状況。 おまけに夜十二時で全学生(除く寮生)を学外に退出させるという措置をとっていたため(理系の学生は実験などで苦労していた)、寮生といえども、深夜二時に学内に入るには、守衛さんに学生証と寮生証を見せて、頭を深々と下げてとなるのだが、小林君はすでに常連らしく、守衛さんも「またですか」という感じで通用門の鍵を開けてくれたのでした。 その後、小林君は見事関門に引っかかり退学。 たしか代田あたりに下宿して、上智大学近くの居酒屋で正社員に近いバイト生活。 その後、短大卒の資格だけは取らないといけないということで、通信教育で短大卒(上智の単位も多少あったので簡単だったらしい)になり、渋谷にあった図書館短期大学(現在は筑波にある図書館情報大学)の非常勤事務員から和洋学園(女子大)の事務員(正規)になり、なんとか一人で生活していました。 そして、僕との付き合いも「酒」「麻雀」「競馬」でずっと続き、僕が東京を離れたあとも、東京に行けば、市川の雀荘(和洋学園時代)に学会後集合、座るとすぐに「五千円握りね」となり、レートもその頃には「二百円のワン・ツー」になっていました。 終わると、当然一献。 市川の「にしがい」という今はない小料理屋で明け方始発が出るまで飲み明かしたのでした。 勝手ながら、いくつか思い出を。 僕の贔屓の馬にグリーングラスというのがいました。 その日は府中でAJCCという重賞競争に出走するも、小林君は所用があり、僕とT君だけでの競馬場詣でとなりました。 事前に僕に一万円渡し「僕にも単勝買っておいて、飲むなよ」と一言。 ところが、単勝オッズは圧倒的人気の一.一倍。 好きな馬とはいえ、これは飲むしかないという好条件。 仮に来ても千円払えばよいだけの話し。 そして、グリーングラスは見事に二着。 夕方新宿で合流、西口の居酒屋で飲み始めると「馬券見せろ」とちくり。 「捨てた」と言い張るも、こちらの目が泳いでいたらしく、この日の支払いは当然僕持ちでした。 同じ頃、小林君はテンポイントという馬を贔屓にしており、常に単勝には一万ほどいれていましたが、最後の引退レースの有馬記念では十万二百円買っていました。 馬券は見事的中。 その二百円の馬券は記念にとっておこうというものでした。 ところが、その後小林君のアパートが隣人の過失で出火。 全財産も失うも、火災保険には入ってなくて、隣人からのわずかの見舞い金だけ。 しかし、落胆する小林君の口から出たのは「テンポイントの馬券返せ」だったのです。 彼の故郷の宇都宮競馬(今はない)に、彼の同級生で中華料理店を営む友人と行ったのですが、後半のあるレースで情報が入ったとのこと。 「~~はやるらしい」といういわゆる八百長情報。 すると、その友人と小林君は早速五万ほど入れると、みるみるオッズが下がっていくではないですか。 僕も半信半疑二万ほど目を瞑って入れると、見事その馬が一着。 配当は百七十円まで下がるも、二人は三万五千円、僕も一万四千円の儲け。 どこまで本当の情報であったかは今も不明です。 先の火事のときに、少しばかりお金を貸しましたが、まあ見舞金だと思い、返済を求める気持ちはありませんでした。 そうこうしているうちに、僕にも就職が決まり、長崎県立大学に赴任することになりました。 僕も身辺整理に慌ただしい日々で、当時は携帯もない頃なので、あとで詳しく連絡するねと東京を去りました。 また、しばらく経って、福岡大学に移動して、ようやく連絡先を確かめ、東京での再会を経て旧交を温めることができるようになりましたが、ある日「あのときのお金を返す」というので、じゃあ馬券買ってよと、ちょうど引退レースとなった第三十五回有馬記念のオグリキャップの単勝に全額入れてもらい、福岡の自宅で勝ちレースを興奮して見ていると、すぐに銀行振り込みするから口座教えろとの電話がかかってきて、当時望外の五百%以上の利子が付いた返済をうけたのでした。 山登りが趣味で、和洋学園では職員の野球部で活躍し、生活に余裕ができてきたころにはゴルフも嗜むような小柄で普通の体格のスポーツマンでしたが、密かに彼の体を病魔が蝕んでいたのです。 それは糖尿病という病気でした。 勤務先の健康診断で判明したのですが、彼の生き方なのでしょうか、一切の治療を拒み、好きなお酒を飲み続けました。 一度強制的に入院させられましたが、入院中は医師の指示に従っていたものの、退院してからは元の木阿弥で、また飲み続けました。 しかし、昼間は飲まなくても正常な状態だったので、いわゆるアルコール中毒ではなかったようです。 ただし、飲み方はほとんどおつまみを食べず、せいぜい漬物を少しか、梅たたきを舐める程度で安い日本酒の冷をぐいぐいとやり、最後はいつも潰れて帰っていました。 最後に会ったのは、平成八年の夏だったと思います。 小倉競馬に行きたいということで福岡に来たときでした。 僕と小林君はほぼ全国の中央競馬場をまわっていたのですが、僕が札幌競馬、小林君が小倉競馬には行ったことがなく、いつか全競馬場制覇を誓っていました。 そんなわけで福岡にやってきましたが、我が家に泊まればというのに、酔い潰れて迷惑がかかると博多駅近くにホテルをとって、土曜に天神の居酒屋で前夜祭となりました。 酔うほどに様子がおかしいのが分かりました。 したたか飲んで帰るころには、目が見難いというのです。 明らかに糖尿病による網膜症が進行しているとしか思えませんでした。 ホテルの部屋まで送りましたが、そのまますぐに寝てしまいました。 我が家に泊まらなかったのは、すでにそのことが分かっていたからだと納得しました。 翌朝は普通の感じに戻っていました。 僕のクルマで小倉競馬へ。 僕はクルマなので飲めませんが、彼は一日中酎ハイなどを飲みながら、競馬を楽しみ、夕方福岡空港から帰路につきました。 言っても仕方ないと分かっていましたが「酒を止めて、長生きしたら」と別れ際に声をかけると、「やかましい」と一言だけ残して、手を振って搭乗口に消えました。 それが最後でした。 その後数年で亡くなったと聞きました。 最後は職を辞して、故郷の宇都宮で息を引き取ったとのことです。 実は症状が悪化して職場を去ったと言う話しが届かなかったのです。 でも、きっと言ったと思います。 「死に際なんかに来なくていいよ」って。 今思えば、死期を悟って、全場制覇達成のため小倉競馬に来たとしか思えません。 冒頭に書いた糖質制限療法があったとしても、彼の寿命は殆ど変わらなかったと思うけど、今こんなことを書くのは、彼と同じように飲んでいた僕が糖尿病にもならずに生き長らえていることに感謝すると同時に、糖尿病という病気があっという間に一人の人間を蝕んでいくのを見たので、今更ながら糖質制限に取り組んでいる自分のことを、将来父親や母親になる学生諸君にも覚えておいて欲しいとの気持ちからです。 実ははっきりした命日は分からないのですが、そろそろお墓参り(友人が知っているらしいので)に行って、永年の無礼を詫び、あと懸案の札幌競馬にも行き、約束を果たしておかないといけないなという気持ちですが、僕も全場制覇をしてしまうと、お迎えが近い可能性もあるので、ちょっと躊躇う気持ちがあるのも正直なところです。 糖質制限参考サイト及び著書 藤川徳美先生(心療内科)のサイト 江部康二先生(高雄病院)のサイト 宗田哲男先生(産婦人科医)著 「ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか」光文社新書 他超多数。 近在では野多目の堺スポーツクリニックで糖質制限を推奨している。 私の専門は、西洋美術史ですから、学生の皆さんに、できるだけ直接、美術作品に触れてもらいたいと、いつも思っています。 美術作品を扱ったテレビ番組(『新日曜美術館』や『美の巨人たち』など)を見たり、スライドで作品を見ながら講義を受けたりするのもよいことですが、美術館や博物館で作品そのものに触れるのがとても大事だと確信しているのです。 スライドやテレビ画面による美術鑑賞には、居心地の良い室内にいて、寛いだ気分で、細部をジックリ眺めることができるというメリットはありますが、やはり本物の持つ「迫力」(これを哲学者のヴァルター・ベンヤミンは「アウラ」〔日本語では「オーラ」と言われる〕と呼んでいます)は伝わってきません。 皆さんにも分かりやすい例をあげれば、車やバイクの本物と、カタログ写真の違いと言えばよいでしょうか。 カタログやテレビの自動車番組を見ても面白いでしょうが、本物に触れて、できれば運転してみなくては本当の特徴はわからないでしょう。 美術の授業やテレビ番組も興味深いでしょうが、やはり作品の実物と対峙していろいろ考えるのとでは、受け取るインパクトが違います。 そんなわけで、皆さんにはできるだけ、美術館などで実物、しかも可能であれば多くの人たちが優れた作品と認めている美術作品に触れてもらいたいと思うのですが、共通教育科目の「芸術」を受講する学生諸君に尋ねても、美術館に行ったことがない、と答える人が多いのは、とても残念なことです。 幸い、福岡には多くの美術館があります。 福岡市美術館、福岡市博物館、福岡県立美術館、そして福岡アジア美術館など身近にあって、常設展なら数百円で入場できますし、ちょっと足を伸ばせば、久留米の石橋美術館や、太宰府の九州国立博物館があります(ちなみに、福岡大学は九州国立博物館のキャンパス・メンバーズとなっており、皆さんは、学生証を提示すれば、この博物館の常設展はタダで観覧できます。 特別展も割引になりますから、ぜひ、利用して下さい)。 美術史の教師としては、新入生の皆さんには、大学時代できるだけ多くの美術館・博物館を訪れ、美術について知見を深めてもらいたいと思うわけですが、先ほどの例に戻って、車の性能を知るには、あらかじめカタログを読んでいろいろ比較してから試乗に出かけるに越したことはありません。 同様に、美術館や展覧会に行くにしても事前にある程度の知識を持っていれば、よりよく楽しめます。 ピカソ展とかゴッホ展のように、個別の作家を扱った展覧会であれば、大学図書館にある「小学館世界美術全集」の該当巻などで予習するのが良いでしょう。 しかしながら、美術の全体的な流れを大きく把握しておくのも、美術館訪問をより有意義にする役に立ちます。 ゴンブリッチ著『 美術の物語』は西洋美術の全史として定評のある著作で、読み物としても優れており、「美術とは何か」考えるきっかけを与えてくれます(最近出たバイブルサイズの普及版は二千円ほどで買えますし、ベッドとか電車とかどこでも読めます)。 日本美術史であれば辻惟雄さんの『 日本美術の歴史』が、最近の定番です。 日本の美術館に行くと仏像や絵巻物、浮世絵などがたくさんあります。 これらは仏教や日本の神話、歴史に取材した作品です。 仏像をよりよく味わおうとすれば、釈迦如来と薬師如来はどう違うか、などある程度の知識はどうしても必要です。 こうした知識は、もちろん、作品を一生懸命見ても自然に獲得されるものではなく、自分で調べて見なくてはなりません。 西洋美術についても同様で、キリスト教やギリシア・ローマ神話、各国の歴史をテーマにした作品をよりよく味わうには、その内容について多少は知っておく必要がありますが、その手助けをしてくれるのがホールの『 西洋美術解読事典』です。 「天使」とか「聖母マリア」「クレオパトラ」など、誰もが聞いたことのある事項について、基本的な知識を与えてくれるだけでなく、主要な作品も紹介しており、拾い読みしても面白い本です。 *********************************** ところで、わたしはイタリア美術を専門に勉強しているので、イタリアという国の社会や文化一般についてもできるだけ幅広い知識を持ちたいものだと思っています。 しばらく前まで日本でイタリアと言えば「美術」や「食事」「音楽(オペラ)」あるいは「犯罪組織(マフィア)」などが想起されるだけの国でした(日本=「フジヤマ、芸者、キモノ、ヤクザ」式の発想では、イタリア=「アモーレ、マンジャーレ、カンターレ」などと言われたりしました)。 しかし、情報化社会が進み、ヨーロッパも身近になった(今ではローマの観光地に行くと、日本の高校生の修学旅行生を見かけるようになりました。 大学の卒業旅行でフランスやイタリア、イギリスに行くのはごく普通の出来事です)こともあり、イタリアについても、より実態に即した社会の状況や文化の様々な様子が知られるようになってきました(NHKにはイタリア語講座もあります)。 そんなわけで、この冊子でも時々、イタリア関係の書籍や映画も紹介しています。 これを理論編とすれば、グラッセッリの『 イタリア人と日本人、どちらがバカか』はイタリアで具体的にありそうな実例を紹介しながら現代イタリア社会の複雑さを教えてくれるイタリア文化論の実践編と言えるでしょう。 どちらも日本のことをよく知るイタリア人の著作です。 三冊目、池上俊一『パスタでたどるイタリア史』は中世史、ルネサンス史の専門家がイタリア各地のパスタ(スパゲッティだけではありません!)を紹介しながら、それに関連づけてイタリアの歴史を教えてくれます。 この本を読んだ皆さんには、スパゲッティだけでなく、ペンネやトルテッリーニ、さらにはニョッキやポレンタも味わってもらいたいですね。 **************************** 最後にあげたゴンブリッチ『 若い読者のための世界史』(上下)は、ウィーンでユダヤ系の家庭に生まれたこの美術史学者が二五歳の時(一九三五年)に書いた本が五〇年後に改訂され、新しい後書きを付け加えて出版されたものです。 この間、ゴンブリッチの故国オーストリアはナチス・ドイツに併合され、ゴンブリッチ自身は英国に移住、戦時中はドイツ語放送モニターとして対独戦に協力し、戦後はロンドン大学のウォーバーグ研究所で長く美術史の研究に携わりました(二〇〇一年没)。 この「概説書」は訳文もこなれ通読しても面白いのですが、本当の価値は、訳者の中山典夫さんも言うように、「五〇年後の後書き」にあります。 第二次大戦から戦後の冷戦、そしてソヴィエト連邦の崩壊と、半世紀の間に世界の歴史は大きく変わりました。 その歴史を肌身に体験し、生きてきた歴史家の証言は貴重です。 最初に出た邦訳は非常に高価で残念でしたが、文庫本で簡単に手に入るようになりました。 これは大変にありがたいことです。 皆さんは大学に入ったばかりで五〇年後の自分など想像も出来ないかも知れません。 でもあなた方にもやがて訪れる未来ですし、「温故知新」は人文学の基本です。 皆さんも大学にいる間に、ゼヒ、過去の人々の証言から多くを学んでください。 新・東京街めぐりガイド (道に迷うための道案内) 遠藤文彦 (フランス文学) 『新・都市論TOKYO』(隈健吾・清野由美著、集英社新書、二〇〇八年) 『新・ムラ論TOKYO』(隈健吾・清野由美著、集英社新書、二〇一一年) 東京観光ガイドのたぐいは山ほどあるが、体裁は違っても、中身は似たり寄ったりだ。 類書と異なり、本書の目的は、東京に不案内な読者に、ためになる知識を伝授したり、役に立つ情報を提供したりすることではない。 二人の著者=対話者は、東京通を自認するコメンテーターよろしく、まるで自分の縄張りであるかのように東京のここかしこの街についてウンチクを傾けるようなまねはしない。 彼らが目論むのは、反対に、誰もが見て知っているはずの町東京を見知らぬ町とすること、テレビや雑誌でおなじみの東京の街を疑問に付し、「?」とすることだ。 汐留、丸の内、六本木、代官山、町田とは何か? 下北沢、高円寺、秋葉原とは何か? 本書は、そうした問いに巡り会い、その答えを探し求めてさ迷い歩くこと、いわば、思索としての散策への誘いである。 それゆえ、東京という問いへの答えをさんざん探し回った挙句、行き着いた先が東京ならざる小布施であり、北京であるというのも、単なる気取りや逆説ではない。 彷徨の果てに、未知の都市トーキョーを発見し、知られざるムラTOKYOを出現させることこそ、二人の散策者=思索者の究極の目的なのだから。 思うに、こんな、道に迷うためにするような街歩きには、知性と教養もさることながら、文明の極みであるはずの都市を、何が出てくるかわからない不気味な原始林のごとくに受け止める、感性というか、ワイルドな心性が求められる。 地元住民には見慣れた街でも、そこに初めてお使いに出された子供や、言葉も習慣も知らずに迷い込んだ外国人なら抱くだろう、不安と好奇心の入り混じる初心な感覚、怯えと勇気の間で揺れ動く野生のメンタリティーが必要なのだ。 東京が面白そうな町だというのは分かっても(そんなこと言われなくたって分かるだろうが)、わざわざ東京に行くにはお金も時間もかかる。 ならば、地方大都市であるわれらが福岡に目を向けてみよう。 ご存知の通り、建築物に限っても、「日本一元気な町」福岡には内外の有名建築家の作品が数多くある。 とりあえずどのビルが誰の設計なのか知っておくだけでも、なんにも知らないで漫然と街を歩くのとは大違いだ。 極々近いところでは、あの槇文彦が設計した福大六〇周年記念館(ヘリオスプラザ)がある。 毎日目にしているはずだが、ぜひ一度、矯めつ眇めつ眺めてもらいたい。 それにしても、この秀逸な気品ある建物が場末感漂う一角に佇んでいるのはちょっともったいない。 視界が開けてぐっと広くなった今のキャンパスのどこに持っていったら映える、というか生きるだろうか、想像してみたら面白い。 動かせないなら、せめて視線を誘い、足を向けさせる、どのような導線を引くべきか、考えてみるのもいい。 さて、「街並みに対する感受性は、教養の中でも一番上位にくるものです」と述べるのは、著者の一人隈健吾である。 彼の名は、ティファニー銀座本店、浅草文化観光センターなど話題の建造物で日本はおろか世界に知れ渡り、銀座の五代目歌舞伎座(とその背後の高層オフィスビル)に至って今や一個のブランドと化しているが、その隈の建築物も意外とわれわれの身近にある。 福大から目と鼻の先、七隈線次郎丸駅で降りて徒歩十数分、室見川沿いの土手に立ち、ひときわ目立つモダンな建物、もつ鍋の「万十屋」がそれだ。 太宰府天満宮参道の中ほどに、目立たないように建てられたのだろうが、どうしても振り返って見てしまう、ご存知「スターバックスコーヒー」太宰府天満宮表参道店もそうだ。 先頃、冷泉町にオープンした料理屋「竹彩」は、内装デザインを隈が手がけている(ここに来て彼のブランド化も極まった感がある…)。 少し足を伸ばせば、戸畑区役所、長崎県美術館、九州新幹線筑後船小屋駅近くの「九州芸文館」などもある。 というわけで新入生の皆さんには、ここに挙げた二冊の小著を手引きに、四年間、福岡の町をさすらって、天神や博多ばかりじゃなく、雑餉隈から野方まで、香椎浜から姪浜まで、ついでに能古島から志賀島まで、縦横に、東西南北、いろんな街、いろんな地区を歩いて歩き尽くしてもらいたい。 そうやって、福岡についての通り一遍の知識や情報を手に入れるだけでなく、その上さらに、未知の都市フクオカにめぐり逢い、知られざるムラFUKUOKAを探り当ててもらいたい。 英語教師を志す皆さんへ 大津敦史 (英語教育学) 大津由紀雄 編著『 危機に立つ日本の英語教育』(慶應義塾大学出版会 二〇〇九年) 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます!これから四年後、社会人としての人生をほぼ決定すると思われる大切なこの四年間、どうか無駄にせず、完全燃焼させてください。 もちろん燃え尽きてしまってはいけませんので、自律と自己管理にもしっかり心がけて下さい。 さて、皆さんの中には、卒業後、英語教師になりたいと思っていらっしゃる方も少なくないでしょう。 毎年、英語学科のみならずドイツ語学科やフランス語学科からも教職希望者がたくさんいますので、今回はそのような方たちのために、右記の本を選んでみました。 まず、編著者である大津由紀雄氏ですが、慶應義塾大学言語文化研究所の教授で、専門は言語の認知科学です。 「認知科学って何?」と思われる方は、ぜひインターネットを利用して調べてみてください。 最近では、大津氏は日本の英語教育、特に小学校での英語教育の是非について様々な提言をされています。 私と同じ姓ですが、残念ながら親類関係ではございません。 この本の著者には、大津氏以外に、日本を代表する12名の研究者が名前を連ねています。 元々この本は、二〇〇八年九月一五日に慶應義塾大学三田キャンパスで開催された公開シンポジウム「「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を超えて」および同年十二月二一日に同大学日吉キャンパスで開催された言語・英語教育講演会「言語リテラシー教育のポリティクス」がもとになっています。 二〇〇八年は、二〇〇二年と二〇〇三年にそれぞれ文部科学省によって策定された「『 英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」と「『 英語が使える日本人』の育成のための行動計画」の目標達成年度に当たります。 この「構想」や「行動計画」がこれまで学校英語教育に与えてきた影響は測り知れません。 しかしながら、「英語が使える人材」を希求する経済界(財界)主導のこのような語学行政は、教育現場に無理難題を押し付けた結果、その教育現場は疲労困憊 (ひろうこんぱい)し、英語教育の質の低下を引き起こしています。 このような時期に、今一度日本の英語教育、学校英語教育の現状と課題とその解決策を整理・模索してみることは非常に有効だと思います。 そのような反省を通して、これから英語教師を目指す皆さんの時代(次代)には、もっと豊かで心地よい教育環境が整備されることを祈って止みません。 先人を知ろう 甲斐勝二 (中国学) 勝海舟《海舟語録》 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫 勝海舟、世界でも希有な江戸という大都市を無血に明け渡した立役者。 西郷隆盛を友とし、坂本龍馬を門下に置く。 篤姫とも仲が良く、姉と偽って江戸を歩き回った事もある。 江戸開城の折には混乱を防ぐため、渡世人の世界にまで自ら赴き頼み回る気配りを語る。 良く世界を見ている。 明治31年まで生きて、伊藤博文の政策への批判も多くある。 岩波文庫に 《海舟座談》があるが、講談社学術文庫の方が注もちゃんとしていて、勝の発言録としては信用できそうだ。 この本をおもしろいと思うのは、勝の人情の機微に渡る観察や、人物批評の痛快さ鋭さ、また社会や人への気配りから、曾 (かつて)あった日本の政治家の姿やその手法を知ることができると共に(善し悪し置くとしてこれはつい最近の政治家まで続いている)、「機」を見るといった個人ではどうにもならない社会の動きへの視点もまた示されているところだ。 内容は読んでいただくとして、中国学を専攻する紹介者にとって、「ふむふむ」と思う文を二つ紹介する。 まずは日清戦争後の李鴻章の態度についての発言。 ナニ、支那が外国人に取られるというのカエ。 誰が取るエ。 支那人は、他に取られる人民ではないよ。 香港でも御覧なナ、実権は、みな支那人が持っているジャアないか。 鶏卵でも豆腐の豆でも、南京米でも、みな支那人から貰っているジャアないか。 それで支那人は野蛮だと言うやつがあるカエ。 ナニが、文明ダエ(一五八頁) 勝は西洋列強の植民地化に対してアジアの諸国が連合し、日本は海軍で海を守る役割も考えたこともあるようだ。 征韓論も馬鹿な話だと片付ける。 勝の考えた方向で日本が動けば、あるいは今とは違っていたかも知れない。 どうしてあんな方向に進んでしまったのだろう。 江戸時代を見なおそう 梶原良則 (日本史) 新入生の皆さんは、江戸時代についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか。 近年の歴史学研究は、江戸時代の通説的イメージに修正を迫りつつあります。 ここでは、新入生にも読みやすい代表的な本を紹介しましょう。 このほかにも、知的好奇心を刺激してくれる多くの本が皆さんを待っています。 図書館を有効に活用しましょう。 「よい子」ってどんな子? 勝山吉章 (教育史) 灰谷健次郎著 『兎の目』 (理論社) 「よい子」ってどんな子?親や教師の言うことを素直に何でも聞く子どもは、確かによい子に違いない。 では、親や教師の言うことを聞かない、親や教師の権威を認めない子どもは「悪い子」なのだろうか。 いつも親や教師のご機嫌を伺い、「よい子」であり続けることに疲れた子どもは、もうよい子ではなくなるのだろうか。 『兎の目』の主人公「鉄三」は、そのような問いを投げかける。 偏差値教育、管理主義的教育に慣らされてきた者にとって、「鉄三」は落ちこぼれに映るだろう。 しかし、人間本性に照らし合わせて考えた時、管理化された現代社会に馴染んでいる私たちこそが、大切な人間性を失っているとは言えないだろうか。 本書を既に読んだ学生も多いと思うが、大学時代に再度読んでもらいたい書物である。 中国の歴史(全十二巻) 紙屋正和 (東洋史) 講談社版 『中国の歴史』(全十二巻)(講談社) 一九七〇年代に、『中国の歴史』(全十巻)、『図説中国の歴史』(全十二巻)、『新書東洋史』(全十一巻、うち中国史は五巻)と、中国史の概説書のシリーズをあいついで刊行した講談社が、『新書東洋史』以外は入手困難になった二〇〇四年から二〇〇五年にかけて、ほぼ三十年ぶりに刊行した中国史の概説書がこのシリーズである。 この間に中国史・中国自体、あるいはそれらをとりまく環境は大きくかわった。 古い時代については、考古学の大きな発見があいついでいる。 稲作の起源は、遺跡が発掘されるたびに千年単位で古くさかのぼり、今や一万二千年前の栽培稲が発見されたというニュースが流れているほどである。 また以前は、中国の古代文明といえば黄河文明と相場がきまっていたが、現在は長江流域において黄河文明に勝るとも劣らない高度な長江文明があったことが明らかになっている。 戦国・秦・漢・魏晋南北朝時代については、当時の法令・行政文書や思想・文学などの著作を書きしるした簡牘 (かんとく)(竹のふだと木のふだ)類や人の目をうばう遺跡が多く発見され、これまで文献史料で知ることのできなかった事実が明らかにされつつある。 新しい時代については、放っておいても新事実が積みかさなってくるのであるが、以前に未発表であった公文書が公表され、さらに中国・中国経済自体が大きくかわりつつある。 政治は社会主義のままであるが、経済はもう完全な資本主義に、少し大げさにいえば日本よりも極端な資本主義になり、すでに世界第二の経済大国として世界経済を引っぱっている。 経済成長がすすみつつあるさなかに、この『 中国の歴史』(全十二巻)が企画されたのである。 ただし、このように大きくかわりつつある「古い時代」と「新しい時代」とに挟まれた中間の時代の場合、大発見があったわけでもなく、新しい文献が見つかったわけでもないため、執筆者はこまったらしいが、旧来通りの中央からの視線でえがくのではなく、地方の現場から世界を見なおすといった機軸によって新鮮味をだそうとしたという。 全体的にかなり高度な内容になっているが、全部を紹介するわけにいかないので、私の専門に近い古代史関係についてのみ内容を簡単に紹介し、のこりは執筆者と書名だけを列記するにとどめる。 現在の中国の経済発展は巨大な開発をともない、発掘もさかんに行なわれている。 その結果、先史時代の文明は黄河流域だけではなく、現在は中国の各地で発見されている。 宮本氏はこうした発掘成果をもとに、物質文化における地域間比較だけでなく、社会構造上の地域間比較をも試みることによって、先史時代における段階的な社会構造の変化に注目し、殷周社会にいたる道のりを多元的に説明する。 これまで「中国の歴史」というとき、先史時代についても文献史学の研究者が執筆することが多かったが、これは考古学の専門家の手になる概説書である。 本巻は、著者自身がみとめるように「一般に提供されている中国史とは、若干異なった視点」で書かれている。 すなわち中国史を、蘇秉琦著・張名声訳『新探 中国文明の起源』(言叢社)が提唱した「新石器時代以来の文化地域」を基礎において分析し、まぼろしの夏王朝、殷王朝・周王朝、そして戦国時代の領域国家のいずれもが新石器時代以来の文化地域を母体として成立したという。 こうした歴史を背負う戦国時代の諸国家は、自国の立場から、先行する夏・殷・周の王朝を論じ、そのうちの一部が史書として現在にのこされている。 しかしそれらの史書は、それができあがった時代に規制され、ときには無かった内容を付けくわえている。 そこで、本巻は、何が後世に付加された虚構の産物なのか、またどの記述が事実を伝えているのかを検討する形で書かれている。 安易な気持ちで、急いで読もうとすると、絶対に理解できない。 この時代は、簡牘類や多くの目を見はる遺跡・遺物の発見があいつぎ、歴史像が大きくかわりつつある時代である。 鶴間氏は秦の歴史、始皇帝像の再評価を試み、また秦・漢時代を地域の視点から見なおそうと試みてきた研究者である。 そうした自分自身の研究を反映させ、あわせて新発見の出土資料を既存の文献史料とつきあわせて本巻を書いている。 とくに新出土資料についてはよく調べて多くの情報を提供しており、専門家としても参考にすべきところが多かった。 この書名にある「三国志」とは、『魏志』倭人伝などをふくむ歴史書の『三国志』ではなく、小説の『三国志演義』であり、執筆者は歴史家ではなく、中国文学者である。 本巻は、ゲーム・アニメ・漫画によってつくられた『三国志』ブームを意識したもので、よくいえばこのシリーズに新鮮味をだすための、悪くいえば読者に迎合するための企画といえよう。 内容は、この時代の歴史の動きを淡々とおいかけ、ところどころで『三国志演義』がどのように脚色されているかを明らかにしている。 本巻は歴史の概説書として読みごたえがあるが、『三国志演義』ファンにも歓迎されるであろう。 基本的には分裂の時代といえるこの時期の歴史を、胡漢、すなわち遊牧民族と漢民族の対立と融合をキーワードにして、隋・唐時代に新しい漢民族・中国文化が登場すること、また中原(黄河中流域)の混乱などによって、未開発地がまだ多くのこされていた長江流域に厖大な人口が移動・移住し、その地の開発が急速に進展することを明らかにし、あわせて中国の周辺において朝鮮半島の三国や倭のような国家がうまれてくることにも目をくばっている。 日本と中国は同じ漢字文化圏、儒教文化圏であるから何もいわなくても分かりあえると認識することが、大きな誤解であることを知らなければならない今この時、一読すべき本であろう。 以下、執筆者と論題だけを紹介する。 新しければよいというものではないが、少なくとも情報は新しいものがふくまれている。 読書には、自分の知らないことをまなぶという「学ぶ姿勢」と同時に、何かおかしい、納得できないことを書いていないかをさぐるという「批判の姿勢」も必要である。 39年前の本というと、「なんて古い本なんだろう」と思うかもしれませんが、地理学や地理学が研究対象とする地域について体系的に論じられています。 私は共通教育科目の地理学を担当していますが、この本は、地理学の講義を学生の皆さんに行うにあたっての、私にとっての参考書ともいうべき座右の書です。 日高敏隆の『 チョウはなぜ飛ぶか』は生物学の本ですが、この本は次の2点において興味深い本です。 第1点は、「チョウはなぜ飛ぶか」というタイトルですが、内容は、一言でいうと、チョウは自分自身が飛ぶ道筋をしっかりと認識して飛んでいるということです。 つまり勝手気ままに飛んでいるのではないのです。 全く土地鑑のない場所に出かけた時に頼りになるのは地図です。 地図を見てわれわれ人間は行きたいところに行くことができます。 チョウは地図を持ってはいませんが、自分が行きたいと思うところへ行くことができ、またそのような本能を持っているのです。 第2点は、研究というものはどのように行われているのか? 研究者は試行錯誤・紆余曲折を繰り返しながら研究成果を出している、研究者とはどのようなタイプの人たちなのか、科学的なものの考え方とは何か、などについていきいきと書かれているという点です。 学生の皆さんが志している学問の枠に捉われることなく、多くの本を手にして教養を高め、知識を習得してほしいと思います。 武野要子福岡大学名誉教授の『 博多』には、博多の町の成り立ちや、政治的に、また経済的に博多に関わりのあった武士や豪商のエピソード、今に伝わる博多の伝統や住民の生活史など興味深い話題が数多くあります。 また、聖福寺や承天寺、櫛田神社、鴻臚館、防塁など博多にゆかりのあるものの記述もあり、この本を携えて福博の町を散策してみたらいかがでしょう。 視野を広げて考えてみよう 高妻紳二郎 (教育行政学) 最初から引いてしまう質問です。 皆さんはなぜ大学に入学するのでしょうか?大学の目的とはいったいどのようなものでしょうか?少し難解ですが、教育基本法、学校教育法という法律にはこう書かれています。 「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。 」(教育基本法第七条) 「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。 」(学校教育法第八三条) つまり、大学に入った皆さんは、高い教養と深い専門的能力を身につけて、知的にも道徳的にも成長が期待されている、ということです。 皆さんにはこれからどんな経験もできるという特権があります。 そしてそれぞれの経験が皆さんを成長させてくれるでしょうが、グーッと引いて自己を客観視できる人、言い換えれば視野を広く持てる人になって欲しいと思います。 ここに紹介するのは著者の二〇代の体験記ですが、 藤原正彦『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)は今なお色褪せない内容で一気に読むことができる本(エッセイ)です。 この本が出版される前、私は藤原氏の講演を聞く機会がありました。 私が通っていた中学校での講演会です。 内容は覚えていませんが「べらべらよくしゃべる人」という印象を覚えています。 後でこの本を読み、「ああ、そういう話だったのか。 」と合点がいきました。 海外に行った時の興奮や不安感は誰でも感じるものですが、表面上の体験ではない自己変容のプロセスに臨場感があり、自身に置き換えて今読み返しても共感できる記述に多くぶつかるので、海外へ行ってみようと思っている皆さんには手にとって欲しい本のひとつです。 エッセイですので読み飛ばすにはもってこいです。 また、岩波新書のなかでも多く読まれている本のひとつ、 池田潔『自由と規律』(岩波新書)をここで改めて推薦しようと思います。 一九四九年が初版ですから還暦を迎えた本となりますね。 イギリスのパブリック・スクールに学んだ著者の体験をもとに書かれた、これも今なお色褪せない内容です。 今の日本の教育は「ゆとり教育」とか「確かな学力」、「生きる力」といったスローガンが先行して内実が伴わないことが目立ち、理念と現実が寄り添っていない状況にあります。 「もっとも規律があるところに自由があり、最も自由なところに規律がある」という精神はイギリスの伝統です。 いま、大学に入って多くの「自由」を手に入れた皆さんであるからこそ、じっくりと、いや、ちらっとでも「自由」の本質を考えてもらいたいと思います。 ふたりの老女 小林信行 (哲学) ヴェルマ・ウォーリス 『ふたりの老女』亀井よし子訳、草思社文庫 百年ほど前、極寒の中、食糧を求めて移動中のアラスカ先住民部族から老女二人が遺棄された。 幼いこどもたちも抱える部族にとって、冬の食糧難を乗りきるための苛酷な選択は過去にも繰り返されてきており、今度も避けられないものだった。 この本は、捨てられた二人の老女の起死回生の物語が若年者向きに仕立てられ、一時間ほどで読み終えることができる。 大人向きではないために、記述描写が簡潔すぎるきらいもあるが、物語のもつ多義性は損なわれておらず、それなりに楽しめる。 棄老伝説の世界的な分布については専門家に譲りたいが、多分いつの時代にもどこの世界にもある話だろうし、現代日本でも、ホームに預けられたまま家族の面会すらない老人たちの数はけっして少なくない。 しかし、多くの場合はその悲惨な面が注目されがちだが、新しいもののために古いものが道を譲ることは、人間が未来を切り開いてゆくときには否応のない面もある。 それほど未来は人間にとっての重大な関心事であり、現状肯定に傾きがちな年長者ばかりが社会の中枢を占めていると、そこに生きる若者たちはどうしようもない閉塞感にとらわれるだろう。 年老いた人間が第一線を離れることは仕方がないとしても、問題はその離れ方・譲り方にある。 長い間ひとつところで仕事に専心してきたものであればそれなりの知恵や技術があり、それらを単に「上から目線」として切り捨てて新たなものを構築しようとすることは、全体にとって賢い選択とは言えない。 もちろん積み重ねがすべてであるわけではないにしても、年長者の知恵が生きていない社会は、たとえやる気満々の若い力が寄り集まっても、その達成度合いには限界が生まれ、明るいはずの未来も幻想にすぎないことが多いだろう。 なにごとにも先人はあらまほしきものなのだ。 古くなってしまったものを軽々に切り捨てずに生かす道を探ることはいかなる社会や組織にとっても大切なことだ、というお説教はあちこちで聞かされるものだが、持続的に成長発展するとか平和で安全な社会を作るといった政治家たちの口癖よりもはるかに内実があるかも知れない。 人間社会にとっては、そして実は人間ひとりひとりにとっても、やはり階層的で有機的な構造が必要なのではないかと二人の老女は教えてくれる。 中世ヨーロッパを統一したカール大帝(独)は、チャールズ(英)であり、シャルル(仏)でもあり、カルロス(西)でもある。 龍退治で名高い聖ゲオルギオス(ラテン語)は、ジョージ(英)であり、ジョルジュ(仏)でもあり、ゲオルク(独)でもあり、ホルヘ(西)でもある。 同じ人物でも、ヨーロッパでは、それぞれの言語で綴りと発音とが異なる。 カール大帝がほぼ統一したとされる中世ヨーロッパでは、言語は今日のヨーロッパ諸語の元となる言語に分かれていたので、古代ローマ帝国の遺産であるラテン語で意思の疎通を図っていた。 現在でも学名がラテン語標記なのは、中世においてリンガ・フランカ(フランク王国の言語)としてのラテン語がヨーロッパ共通語であったことに由来する。 ブリテン島に由来するアーサー王伝説は、中世にヨーロッパ大陸の各地方に広まり、キリスト教と結びついて聖杯伝説を紡ぎ出し、物語の奥行きを深めてゆく。 まずは、 ブルフィンチの『 中世騎士物語』(野上弥生子訳、岩波文庫)を繙いてみるとよい。 中世の騎士文化と信仰と生活とに興味があるならば、 ホイジンガの『 中世の秋』(堀越孝一訳、中公文庫)をお薦めしたい。 ウンベルト・エーコの『 薔薇の名前』(河島英昭訳、東京創元社)は、中世のキリスト教世界を舞台にした推理小説である。 主人公バスカヴィルのウィリアムはブリテン島出身の修道士、ドナウ川沿いメルク(オーストリア)出身の年若の修道士アドソとともに、北イタリアの修道院で起きた謎の連続殺人事件の真相を追う(彼らはホームズとワトソンに擬せられている)。 事件の鍵を握る図書館守で盲目の修道士ホルヘはスペイン語圏出身、教会の権威を守ろうと事件を早急に解決しようとする異端審問官ベルナール・ギーはフランス語圏の出身。 彼らを軸に、息もつかせぬ推理劇が展開される。 ギリシアの哲人 アリストテレス『詩学』(岩波文庫他)の散逸した「喜劇論」が事件の鍵である。 小説は、ラテン語の血を引くイタリア語で書かれているし、登場人物たちはじっさいにはラテン語を話していたことだろう(そして初代007のショーン・コネリー主演、英語で映画化されている)。 息子の頭上のリンゴを射て故郷を救ったスイス独立の英雄として名高い ウィリアム・テル(英)は、 フリードリヒ・シラーの戯曲(絶版、ただし福大図書館にあり)や ロッシーニのオペラにも描かれているが、スイスはドイツ語、フランス語、イタリア語、レトロマン語の四言語が公用語であるから、国内ではヴィルヘルム(独)とも、ギョーム(仏)とも、グリエルモ(伊)とも呼ばれ讃えられている。 ちなみにシラーの戯曲『 オルレアンの乙女』(絶版、ただし福大図書館にあり)の主人公、聖女ジャンヌ・ダルクは、天啓に従い、イングランドとの百年戦争に闘い、シャルル七世の戴冠に寄与した。 にもかかわらず、異端審問にかけられ、火刑に処せられた彼女はまた、聖ジェーンであり、聖ヨハンナであり、聖ファナでもあった。 それぞれどこのことばだろう…… ところで、ヨーロッパにはギリシア文字やキリル文字のほかに、ドイツ語のウムラウト記号やフランス語のアクサン記号などを伴った文字があって、アルファベットの二十六文字で表しえない文字がある。 これをコンピュータ上でも自在に操れるようになる授業が、福岡大学には用意されている(ヨーロッパ学ICT: Information and Communication Technologies)。 さて入学生のみなさん、そもそも福岡大学では、ヨーロッパの言語ならば、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、ラテン語、ギリシア語が学べる。 さまざまなことばの森へ、さあ冒険に出てみよう。 お祭り見学の勧め 白川琢磨 (文化人類学) 主に福大に入学する皆さんは、九州か中国・四国出身の人が多いだろうから、「もう一度」お祭り見学の勧めと言うべきだろう。 幼い頃から少なくとも何回かは近所の神社や寺のお祭り、あるいは民俗行事に参加した経験があるかもしれない。 だが年を経て自然と足が遠ざかり、大学受験を控えてお祭りなどに行っている場合じゃないと思っていたかもしれない。 しかし今、改めて行って欲しいのである。 そこに集う人々が何を語り、何を楽しみにしているのか、またどのような神仏に何を祈り、何故に来るのか、じっくり耳を傾け、しっかりと経験して欲しい。 そのようにして君らにはまず立派な「ネイティヴ」に成って欲しい。 大学に入って「文化」を研究するのであれば、そうした君らの経験を再度「他者」の視線から捉え直すことになる。 しかしそれはそれ程難しいことではない。 近代人類学は、「異文化」に「他者」として参入することを業としてきた。 だが人類学者という「他者の語り」におとなしく耳を傾ける「未開社会」などもう世界の何処にもありはしない。 世界各地でネイティヴたちは、しっかりと自らの文化を語り始めたのだ。 その力強い語りを前に、近代人類学という巨人はしばしその歩みを留めているのである。 西欧の人類学者の殿(しんがり)に連なってきた日本の人類学にとって、その影響は深刻である。 我々は一体何者なのか? 日本は西欧と同じく研究する側なのか、それとも異文化として研究される側なのか? 答えはその両方であろう。 研究し、そして研究されるのである。 ただし、前提がある。 「ネイティブとして」である。 日本のアフリカ研究の草分け、和崎洋一氏は、亡くなる前に「先生がもう一度生まれ変わって研究するとしたら何処でしょうか?」との問いに躊躇なく「日本」と答えたそうである。 ポストモダンの時代に生きる我々は、大和崎が二つの人生に分けた課題を一時に果たさねばならない。 そのためにはまず我々はネイティブに成り、ネイティヴを磨かなくてはならない。 昨年は一年かけて「鬼」というネイティブの産物を追いかけてきた。 写真家の清水健さんと共同で文藝春秋の平成一九年一月号にグラビア特集が掲載されているので関心のある人は見て欲しい。 天念寺の修正鬼会を撮り終えた後、国東半島の宿で夜遅くまで語り合ったが、「いやーそれにしても九州は奥深い凄い所ですね」と感に堪えたように呟いた。 ナショナルジオグラフィックの撮影で世界中を飛び廻り、今回の特集では全国を撮影して歩いた清水さんの言葉である。 それに励まされて私は思わず書いてしまった。 「九州は鬼の宝庫である。 」実は鬼だけではない。 ネイティブを育成し醸成する豊かな土壌に恵まれているのである。 祭や民俗芸能はそうした豊かな土着の集合表象に触れる絶好の機会である。 今年の暦も既に動き始めている。 正月七日夜、久留米大善寺の大松明の灯と煙に咽びながら闇夜に紛れる鬼を追うことから始まり、十四日には志賀海神社で大宮司四良、別当五良ら若者八人が渾身の力を込めた歩射の力強い矢鳴りを聞いた。 やがて節分、さらに「松会」、桜の開花の頃から駈仙(ミサキ)が活躍する勇壮な神楽が始まる。 そして汗ばむ季節になると各地で「山笠」の声が聞こえ始める。 fsg. pref. fukuoka. asp)。 必ず、何か得るものがあるはずである。 文字に書いてあるものだけが価値があるという偏見を捨て、祭や芸能という生きた教材を是非経験して欲しいものである。 博物館へのいざない 武末純一 (考古学) 博物館へ行ったことがあるだろうか。 人文学部の新入生ならば、すでに一つか二つはあるだろう。 しかし大学生には大学生なりの見方がある。 行ったことのない人はまず特別展を見に行くのが良い。 私の専門は考古学、モノから歴史を考えていく学問である。 以下は、博物館などでひらかれている考古学関係の特別展へのささやかな招待状である。 特別展は、秋の文化シーズンにあちこちの博物館や資料館で開かれる。 このごろは夏休みや春休みに開くところも増えてきた。 でも特別展は楽しい。 楽しさの一つは、それまで写真や図でしかみたことのなかった実物に会えること。 せっかくの機会だから、上から、下から、横から、斜めから、じっくりと眺めて、どのように作られ、どんなふうに使われたかを想像しよう。 もちろん、図録や横にそえられた解説文に答えがのっている場合もあるし、それを理解するのも大事だが、それよりも大切なのは、答をうのみにしないで自分で考えること、自分の疑問をもつこと。 二つ目は、あちこちの発掘品が一か所に集められていることである。 それぞれの保管場所に行って見せてもらうととんでもない金額になるから、一見高そうに見える特別展の料金も実は安いものである。 それと、いつもは全く別のところにあるモノ同士がすぐ横に並ぶから、比較ができる。 これはけっこう大事である。 何回もいったりきたりして見比べ、「似た形だけどここが違うな。 これは出たところが違うからかな、それとも作った時代が違うからかな」「へー、こんなに遠く離れて出ているのにそっくりじゃないの」など、自分だけの発見ができればしめたものだ。 三つ目は、発掘の記録は報告書という形で本になるが、手に入りにくいし、入ったとしても一般の人が読み通して理解するのはけっこうシンドイ。 でも博物館では、そうした成果をできるだけ噛みくだいて、どんな発見があったのか、何がわかったのか、どういう問題が出てきたのかを、実際にモノを示しながら説明してくれる。 ちょっと変わった楽しみ方もある。 学芸員になった気分で。 この照明は展示品のどこを強調しているのか。 自分だったらこういう角度でここをみせたい。 このパネルはなぜこの大きさでここにかけられているのだろう。 展示品をきわだたせるためにどんな形や色の台を使っているのか。 なぜこの展示品とあの展示品の間がこの位空いているのか、などなどなど。 そう、ここまでくれば、もう特別展だけじゃなくて常設展でも十分に楽しめることがわかってくる。 まずは福岡県内あるいは故郷の博物館だ。 昔の博物館は、展示品がケースの中に重々しく鎮座し、いかにも「見せてやる」といった感じが強かったが、いまでは〈さわる〉〈作る〉〈使う〉などの体験コーナーも整いつつある。 充実したミュージアムショップや市民ライブラリー、しゃれたレストランもけっこう多い。 講堂や入り口のホールで演奏会を開くところも出てきた。 〈博物館は古くさい〉というイメージは消え始めている。 自分の知の世界を広げるために博物館をのぞき、どれでもいいから、自分の心にとまった展示品をスケッチする。 そんなすてきな時間を作ってみたらどうだろう。 なお老婆心から蛇足を一つ。 ゆめゆめ月曜日のデートの場所に博物館や美術館は指定しないように。 日本では月曜日は休館日なのだから。 日本と中国の長い関係を考えれば古典や歴史の本が多いのは不思議ではありませんが、同時代のものに限れば、政治や経済に関するものが多いように思われます。 他方で、日常生活を送る場としての社会を真面目に紹介した本は多くはないのではないでしょうか。 そこで、ここでは、こうした領域について手がかりを与えてくれそうな、いくつかの作品を推薦します。 一つ目は魯迅のもの。 皆さんももしかしたら『 故郷』を教科書などで触れたことがあるかもしれないし、なにをいまさらという声が聞こえないでもないのですが、読んだことのある人も、そうでない人もしばらくお付き合いを。 突然ですが、皆さんは一年に数冊の日本語の本しか読めないという状況に出会ったことがありますか。 私事で恐縮ですが、中国の農村に住み込んだときのわたしがそんな状況でした。 かなり悩んだ末に持ち込んだものが、今昔物語と魯迅の文庫、淡水魚類図鑑でした。 今でもなかなか良い選択だったと思います。 特に魯迅には随分助けられたのを憶えています。 私は文学の研究者ではありません。 にもかかわらず、魯迅の作品を挙げる理由は、激しい論調や手厳しい諷刺のなかに垣間見える鋭い社会観察は、今日の中国社会を考える上でも有用ではないかと思うからです。 もちろん魯迅を読めば今の社会がわかるといっているわけではありません。 社会背景もずいぶんと異なるはずですし、作品はあくまで作品でしょう。 けれども、様々なヒントが含まれているという点で、今日でも繰り返し読む価値のある作品が多いと思います。 いろいろな人が訳しているので、誰のものを選ぶかは好みで結構。 まず手始めに『 吶喊』を手にとって見てください。 二冊目は『 リン家の人々』という本。 これは、一九五〇年代末に台湾北部の村で生活した人類学者の妻(後に著者本人も人類学者になってしまいました。 「異文化体験」というのはなかなか強烈で侮れません)が記したある大家族の記録です。 推薦理由は、訳者の解説にあるように漢民族の家庭生活の肌触りを知るうえでは良書であるから、です。 人や情報の往来は急増し、中国について語る機会が増え、私たちはなにか中国社会について理解を深めたような自覚を持ちやすい今日の状況がありますが、果たしてどの程度理解している、理解しようとしたことがあるでしょうか。 たとえば、本書の扱う家庭や人間関係などは如何でしょう。 この本は、反省と驚き、知ることへの欲求をかきたててくれる事でしょう。 また、最近、中国大陸中心の議論が極端に増加していますが、台湾、香港といった地域から考える、あるいはこれらを含めて考えることが不可欠なのではないかと私は思っています。 なので、台湾を舞台とした、面白いけれどもあまり話題にならない本を選びました。 さきに断っておきますが、ここに挙げた本は、ある事象についての知識を簡潔に記したものではありません。 もしそうした知識だけが必要であれば、百科事典でも暗記したほうがましでしょう。 大学に来た以上、自分で問いを立てて、常識を疑い、明確な論証を挙げて検討することが必要です。 こうした営みが楽しいかどうかは人によると思いますが、大学とはそういうところだと私は思っていますので、上の本を推薦してみました。 後は自分で面白そうなものを探してください。 最後に、本ばかりでは味気ないという意見もあるかもしれないので、映画をいくつか推薦しておきます。 ここでは、わたし好みの監督から『 青い凧』(田壮壮監督、一九九三年)、『 女人、四十。 』(アン・ホイ監督、一九九五年)、『 麻花売りの女』(周暁文監督、一九九四年)、『 延安の娘』(池谷薫監督、二〇〇二年)の四本を選びました。 図書館や教室だけが学ぶ場というわけではありません。 前の三作品は本学の言語教育研究センターにもありますので、在学中に是非足を運んでみてください。 就職活動を考える前に、お金について考えよう 辻部大介 (フランス文学) 安部芳裕 『おかねの幸福論 ベーシック・インカム編』(キラジェンヌ) 入学したばかりのみなさんに「就職活動」なんて、あまりに気が早いと思われることでしょうが、ほんらい閑暇の中で、読書に、思索に、談論に捧げられるべき大学四年間の少なからぬ時間を、在学中の生活の維持と卒業後の生活手段の確保のために奪われることを強いられている人が年々増える一方であるという現実を、なんとかしなくては、との思いから、この一文を書いています。 これからの学生生活を、そしてその後の人生を、真にゆたかなものにするために、世の中のしくみ、経済のしくみを知ることからはじめてほしい。 今のお金のしくみのどこがどうおかしいのか、そのためにどんな理不尽なことが生じているか、そして、その解決のためには、どんな手だてがありうるのか。 ここに紹介する本は、そうした問題について知り、考えるための最初の手引きとして、最良の一冊と思います。 高校生にもすみずみまでわかるであろうやさしい言葉で書かれた、一時間もあれば読み終えられる小冊子の中に、私たちのお金に対する考え方を百八十度転換させるに足る、重要な指摘とアイデアがつまっています。 学ぶことを支える仕事 徳永豊 (支援教育学) 教師は学校で子どもたちと授業をして、国語や数学の内容を教えることが仕事である。 別の言い方をすれば、学校で子どもたちがよりよく学ぶことを支える役割が教師にある。 子どもたちは、学校で同じように学ぶのであろうか。 学びについて、みんなが同じであることはけしてない。 それぞれの理解の程度、これまでの経験、学び方など実に多様である。 よくわかる子ども、理解が早い子どもがいる。 また、よくわからない子ども、理解がゆっくりの子どもがいる。 教師として「学びを支えること」を考えた場合に、どちらがおもしろいのであろうか。 「よくわからない子どもに教えることがおもしろい」という障害のある子どものための学校の教師がいる。 わかる子どもとの授業では、教師の苦労は少ない。 よくわからない子どもとの授業は、教師が工夫し苦労しながら授業に取り組む。 数多くの失敗を繰り返し、授業に工夫を加えることで、徐々に子どもの「学びを支えられる」ようになる。 そしてはじめて、子どもと「わかった喜び」を共有できるように教師が成長する。 「よくわからない」世界で、「わかる」を拾い上げた瞬間である。 この瞬間があるからこそ、やめられない仕事が学校にはある。 イロイロな映画を見よう 冨重純子 (ドイツ文学) 私が何か少しでもシンガポールのことを知っているとしたら、それは映画『 イロイロ』(二〇一三年)(アンソニー・チェン監督)のおかげだ。 シンガポールは人口約五四〇万人、そのうち外国人が二〇〇万人を占めるという。 両親が共働きで忙しく、ひとりっ子のジャールーは、わがままな振る舞いが多く、小学校でも問題ばかり起こしている。 手を焼いた母親(マレーシア出身の女優が演じている)はフィリピン人のメイド、テレサを雇う。 テレサには故郷に子どもがいて、仕送りをしている。 テレサを受け入れる気のまったくないジャールーだが、テレサの出稼ぎの必死をじっと見ているのは、おとなたちよりジャールーである。 それぞれに孤独なふたりは、しだいに心を通わせるようになる。 ところがある日突然、ジャールーの父親が会社を首になって、テレサは解雇されることになる。 少年の成長、公共住宅の生活、金銭的トラブル、夫婦や親子、移民や階層の問題は、シンガポールの今を映しながら、同時に普遍的でもある。 父親の失業とフィリピン人メイドとの別れは、監督自身の体験がもとになっており、英題の「ILO ILO」は、その女性の故郷の地名だという。 私が何か少しでもアルゼンチンの現在を知っているとしたら(私はサッカーにまったく興味がない)、それは『 幸せパズル』(二〇〇九年、ナタリア・スミルノフ監督)のおかげだ。 息子たちがそろそろ独立する時期を迎えた専業主婦のマリアは、誕生日プレゼントにジグソーパズルをもらったことをきっかけに、自分にジグソーパズルの思わぬ才能があることを発見する。 パズルの大会にも出場し、優勝もする。 家庭にのみ生きてきた主婦が自分の世界をもつようになる話と言えばそれまでなのだが、ブエノスアイレスでもわれわれが知っているのと同じような人生の局面が生きられており、同じでありながら、またひとつひとつ異なる生活が行われている不思議。 そして、ジグソーパズルに没頭する人々の世界があることがおもしろい。 あるいは『 皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇』(二〇一三年、シャウル・シュワルツ監督)で、私はアメリカ合衆国との国境に面したメキシコの町のことを知った。 これはドキュメンタリーで、年間三〇〇〇件以上の殺人事件が起こる街の様子と、「ナルコ・コリード」と呼ばれるサブカルチャーをめぐる取材で構成されている。 「ナルコ・コリード」は物語歌を意味する「コリード」という古い語に麻薬の語を組み合わせた名称で、明るいリズムにのって麻薬組織やその幹部、暴力を称揚する歌のジャンルなのだという。 全体として政府や警察組織が機能しない中で、命がけで日々の任務を果たす警官のひとりと、インターネットでしかメキシコの麻薬組織のことを知らないでナルコ・コリードの歌を作り、歌っている、ロサンゼルス生まれのメキシコ系アメリカ人歌手が、映画のふたつの極を成す。 今や莫大な富を生み出し、大きな影響力をもつ「ナルコ・コリード」だが、メキシコでも支持されているその背景には、貧困と社会の荒廃がある。 一部の人々にとって、麻薬組織は唯一の成功のモデルとなっているのだ。 『 僕たちの家に帰ろう』(二〇一四年、リー・ルイジュン監督)は、中国の甘粛省に住む少数民族ユグル族のバーテルとアディカー兄弟が主人公の映画。 ふだんは小学校に通うために、遊牧をしている両親と離れて暮らしているふたりが、夏休みに両親のいる遊牧地を目指す。 ユグル族の人口は現在一万数千人だそうだが、経済発展や草原の砂漠化で、年々遊牧も難しくなってきており、これが最初で(?)最後のユグル族の映画となるかもしれない、そんな状況が伝わってくる。 しかし、とにかく、砂漠をラクダで進んでいく少年たちの道中が命がけの冒険でもあり、美しくもあり、すばらしい。 似たようだけれど、古臭い題で公開されてしまったドイツの映画、『 ぼくらの家路』(二〇一四年、エドワード・ベルガー監督)は、原題はシンプルに「ジャック」である。 育児放棄に近い母親と幼い兄弟の話だが、年長で十歳のジャックがひとつの決断へと向かう物語なのだ。 最近よく耳にするような状況で、しかし住まいが違い、空間が違えば、異なる状況なのだろうか。 王朝が倒れ、新しくイスラムの共和国が樹立された一九七〇年代末から一九九〇年代のイランで、少女から大人に成長していくマルジの物語、『 ペルセポリス』(二〇〇七年マルジャン・サトラピ/ヴァンサン・パロノー監督)は、サトラピ監督自身の自伝的「バンドデシネ」(フランスの漫画)が原作のアニメーションだ。 反政府活動やその弾圧の毎日にあって、サトラピ家の女性たちが炸裂させるユーモアのすばらしさ。 とくにマルジの祖母! イランについて私が持っていたささやかな知識と漠然としたイメージに、みごと風穴を開けてくれた。 これらの映画を私が見ることができたのは、「KBCシネマ」という映画館があるからである。 福岡には目下、大手の映画館で上映されないような映画を見ることのできる映画館は、KBCシネマくらいしかない。 しかし、ここに行けば、かなりの映画が見られる。 何といろいろな映画があることか。 いろいろな映画を見ていると、気が狂いそうなほどだ。 しかしそれはこの世界が、気が狂いそうなくらい異なる無数の世界でできているからだ。 (それは日本の中でもそうだ。 )映画はそのいろいろな世界を示そうとするもの。 イロイロな映画を見よう。 少し変わった本 永井太郎 (日本文学) ホルヘ・ルイス・ボルヘス『幻獣辞典』(晶文社) アルゼンチンの幻想文学作家ボルヘスが書いた、神話や小説に登場する、実在しない怪物のアンソロジーです。 バジリスクやケルベロス、体の前半分が獅子で後ろ半分が蟻というミルメコレオ、ドイツの小説家カフカの描いた、なんだかわからないオドラデクなど、奇妙な幻獣たちが登場します。 また、澁澤龍彦の『幻想博物誌』も、同じように空想の生物を紹介した本です。 実ではなく、羊や人間の娘がなる木の話など、面白いエピソードが多く集められています。 『幻獣辞典』と重なるものもありますが、こちらもおすすめです。 ただ、絶版なので、図書館で借りて読んでください。 ハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』(平凡社) 第二次世界大戦中、日本軍の収容所から脱走した捕虜が漂着した島で発見した、鼻で歩行する「鼻行類」。 その生態を記した本と言えばもっともらしいですが、全て虚構です。 全くの虚構の生物を、本格的な生物学研究書の体裁で描いた本です。 時に「鼻行類」の体の構造の説明が専門的すぎて「?」なところもありますが、鼻で歩く「鼻行類」の様子を読むだけでも楽しい本です。 日本では、劇作家の別役実に、様々な生物やその他のものについて、もっともらしい文章でナンセンスな解説をした本があります。 僕が初めて読んだのは「虫づくし」(ハヤカワ文庫。 絶版)でしたが、他にいくつもあります。 ハヤカワ文庫では、「道具づくし」「もののけづくし」があり、福大図書館にも「けものづくし」「魚づくし」「鳥づくし」が入っています。 ちなみに、「腹の虫」などと比喩的に言いますが、昔は本当にお腹の中に虫がいて病気を起こすと思われていました。 そうした虫の絵をおさめた、長野仁・東昇『戦国時代のハラノムシ』(国書刊行会)という本もおすすめです。 ゲリー・ケネディ、ロブ・チャーチル共著『ヴォイニッチ写本の謎』(青土社) 二十世紀はじめイギリスの古書商ヴォイニッチが見つけた、中世のものらしい古写本。 そこには、「全く解読できない文字群と、地球上には存在しない植物が描かれていた」(帯の言葉)。 一体、これは何なのか、そしてこの本は何のために書かれたのか。 謎のヴォイニッチ写本について、その内容とこれまでの解読のドラマを、わかりやすく紹介した一冊です。 筆者たちの結論は、あまりにも簡単なものですが、ヴォイニッチ写本の奇妙な文字や絵を見るだけでも十分楽しい本です。 ジョスリン・ゴドウィン『キルヒャーの世界図鑑』(工作舎) ヴォイニッチ写本解読の歴史の中で、アタナシウス・キルヒャーという名が出てきます。 実際には解読に手を付けなかったようなのですが、彼はルネサンス期の有名な知識人です。 地球の構造から中国やエジプトの博物誌、そして普遍音楽の構想まで、幅広い分野にわたって本をしるし、その意味ではレオナルド・ダ・ヴィンチのようなルネサンスの万能人といっていいでしょう。 しかし、ダ・ヴィンチと違うのは、彼の拠って立っていた知識が、現在の科学では完全に否定されているため、その業績がほとんど顧みられないという点です。 例えば、彼は当時解読できていなかったエジプトの象形文字を解いたとして大著を著しました。 そこで、彼はエジプトの象形文字を表意文字として解釈しました。 しかし、その後、エジプトの象形文字は表音文字であることがフランスのシャンポリオンによって明らかにされました。 したがって、彼の本の意味はほとんどなくなったのです。 にもかかわらず、彼の本が魅力的な理由の一つは、奔放な想像力が生み出した絵です。 火と水に満ちた空洞の地球の内部、不思議な中国の風俗、奇妙な音響装置など、キルヒャーの著作の図版を中心に紹介したのがこの本です。 中でも、断片的な知識をもとに、勝手な想像で作り上げた「ブッダ」の絵はなかなか衝撃的でした。 ニューデリー大気汚染報道に思うこと 則松彰文 (東洋史) 今年一月初旬の読売新聞に、目を疑いたくなるような記事が掲載されていた。 見出しには、「大気汚染 死者年一万人 ニューデリー」とある。 5の年間平均濃度が世界の一六〇〇都市のうち最悪で、一立方メートル当たり一五三マイクログラム、断トツのワースト一位であるという。 大気汚染で悪名高き、あの北京の二・七倍もの濃度。 しかも、驚くべきことに、北京はワースト七十三位に過ぎず、世界には北京以上に大気汚染のひどい都市がさらに七〇以上もあるというのだから、驚愕の事実としか言いようがない。 ワースト一位のニューデリーでは、大気汚染が原因と見られる肺疾患などにより、年間一万~三万人もの死者が推定されるという。 ここ数年、日本ではすっかりお馴染になったPM2. 5であるが、正式には、二・五マイクロメートル以下の微小粒子状物質(Particulate Matter)を呼ぶそうである。 当地福岡では、NHKのローカルニュースで、連日その濃度が放送されるようになって数年になる。 我々日本人にとっては、PM2. 5はすべて隣国中国から飛来するものであり、中国人と聞けば「爆買い」、北京と言えばPM2. 5という図式が完全に出来上がっている。 しかし、その北京でさえ、ワースト七十三位にとどまるというのだから、世界の大気汚染の深刻さが容易に想像できるというものである。 私は、読売新聞のこの記事を読んで、とても大きな衝撃を受けた。 勿論、大気汚染の深刻さもあるが、私の衝撃は、自らが如何にインドの情報を持ち合わせていないか、そして、如何に世界の実情に疎いかという点においてであった。 日本におけるアジア情報は、アメリカや西ヨーロッパのそれに比して、明らかに少ない。 中国・韓国情報は、それでもまだ割と多く流れる方だが、インドとなると極端に少なくなる。 昨年、ついに一三億人を突破し、間もなく中国を抜いて世界一の人口大国になるインド。 経済成長に明確なかげりの見える中国に対し、まだまだ成長を継続しそうなインドであるにも関わらず、日本で目にする事の出来るインド情報は、実に限られている。 まして、アフリカをや、ラテンアメリカをやである。 グローバル社会、情報化社会といわれる昨今ではあるが、それが如何に言葉だけに過ぎないものか、単なる表層にとどまる評価であるのか、このニューデリーの大気汚染に関する一件は、象徴的に示していると言えよう。 「大学生なら毎日、新聞を読みなさい」と大学教員の多くが言う。 私も同様に、学生諸君に対しては、常に「新聞を読め、ニュース番組を見ろ」と言い続けている。 しかし、更に「それらだけでは到底足らないのだ!! 」と改めて付け加えねばならないと痛感した。 今年の夏休みにでも、直接インドを訪問して、自らの五感で彼の地を体感してくることにしよう。 Tips for Learning English Stephen Howe (英語学) Compared to someone who knows no English, you already know a lot. You can read this page, for example. Remember, you have a good head start: Japanese has more English words than any other language (apart from English, of course). That means you already know hundreds and hundreds of English words in katakana. Build on what you know and try to improve a little each day. Practice makes perfect Learning a language is like learning to play a musical instrument - to improve, you must practise. And music is for playing and enjoying - so, have fun speaking and communicating in English! Imagine you are studying music: to play well and graduate, you need to practice for an hour or more each day, at least. If you do the same for English, you will be able to speak beautifully by the time you graduate. The same for language Use it or lose it To speak a language well, you must use it - as often as possible: ・Speak to yourself in English ・Try to think to yourself in English, for example on the bus or train ・Describe the people you see, or what you're going to do today ・Speak English with your friends ・Meet your friends for tea or coffee and practise speaking English for fun Train your brain Set yourself a target to improve your English each year you are at university. Improve a little each day, and you will improve a lot by the time you graduate: ・Set aside some time to study English each day ・If you commute to university by bus, train or subway, use your time to learn English Don't worry about making mistakes As in life, making mistakes is an important part of learning a language - so don't worry, just keep talking! Be cool at school Impress your friends with your fluency in English, whatever your major: ・Learn in class ・Use your time with your teacher to improve your English ・Learn outside class ・Don't think of your class as the only time you learn - try to improve your English outside class, too Make friends with the international students on campus Practise your English on the international students at Fukuoka University - they want to talk to you! ・Ask them about their country and tell them all about Japan Watch TV and movies in English Movies are a great way to listen to spoken English - and they are available everywhere - watch as many as you can: ・Switch to English sound when you watch English programmes or movies on TV. You will understand more and more ・Watch a movie several times - you will understand better each time ・Try to repeat what the actors say ・As well as movies, watch the news in English at cnn. com ・NHK shows English news early each morning. Watch the news each day, and you will make great progress in your understanding for TOEIC Read a book, magazine or newspaper in English Whether Harry Potter or William Shakespeare, read a book in English - there are thousands to choose from! ・Read an English magazine ・If you love fashion, read an English fashion magazine; if you love sport, read a sports magazine in English. You will learn a lot of vocabulary about your interest ・Read a newspaper ・The Japan Times is available everywhere and is easy to read ・Fukuoka University Library has many English newspapers ・Read the news in English online ・Try bbc. uk for English news Write a diary in English Like Samuel Pepys and Bridget Jones, write a diary in English - about what you do each day, your thoughts and feelings. This will help you improve your writing greatly. Listen to English music and radio Listen to your favourite British or American bands - they can help you learn English! ・You can listen to English music on the web at www. bbc. Get your English ready for a trip or study abroad: ・Practise for your trip ・It will be easy to meet people if you can speak a little English ・Fukuoka University has several study abroad programmes. If you can, study in another country - you will learn many things and have the time of your life Finally, what about after university? What can English give you? English is a key to the world and knowing English can help you get the job you want. English gives you: ・Communication skills ・An international dimension ・Awareness of other cultures ・Opportunities to work and travel abroad ・And the ability to communicate with the world 犬がどのように考えているか、をどのように考えるか 平田暢 (社会学) スタンレー・コレン著 (2007年) 『犬も平気でうそをつく?』文春文庫 この本をお薦めするのは、私自身が犬好きで、犬好きの人にとって面白く役に立つ、ということもあるのですが、それ以上に、大学で勉強するときに重要な「考え方」について自然に馴染むことができる、という理由からです。 日本語のタイトルはややひねりすぎです。 著者のスタンレー・コレンの専門は心理学で、カナダのバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学で教授を務めています。 犬好きが嵩じて訓練士の資格をとり、犬の訓練クラブのインストラクターもしているそうです。 私たち人間は、他の人たちを観察したり、対人関係の中でさまざまなことを学びます。 これを「社会的学習」といい、私たちは言葉や規範、あるいは歯の磨き方などもそうやって身につけていきます。 では、そのような学習能力を犬も持っているのでしょうか。 おそらく持っていると想像はできますが、本当に知りたいのであれば確かめねばなりません。 「犬には自意識がある」や「犬には超能力がある」という仮説を立てた場合も同様です。 コレンの専門である心理学や私の専門である社会学では、仮説を検証するというアプローチをよくとります。 実験はその典型ですが、社会調査なども同じような手続きに沿って行われます。 大学の勉強では、知識だけではなく、このような手続き、あるいは考え方を身につけることが強く求められます。 『 犬も平気でうそをつく?』という本は、犬の能力や感情、意識についてさまざまなことを教えてくれますが、数多くの事例や実験、調査がうまくはさまれていて、仮説を検証するプロセスの面白さ、その有効性がごく自然にわかってきます。 犬には社会的学習能力があるか否か、それをどうやって確かめたかは、本書を読んでのお楽しみ。 以下に、スタンレー・コレンの犬に関する他の著作も挙げておきます。 いずれも文春文庫です。 飼い主の性格に合う犬種は何か、どうすれば犬に意思をうまく伝えられるか、どのようにして犬は狼からつくられてきたのか、などなど、盛りだくさんで楽しめます(最後は結局犬が好きな人のための紹介になってしまった…)。 『デキのいい犬、わるい犬』(The Intelligence of Dogs) 『相性のいい犬、わるい犬』(Why We Love the Dogs We Do) 『犬語の話し方』(How To Speak Dog) 『理想の犬(スーパードッグ)の育て方』(Why Does My Dog Act That Way? いま皆さんは大学生活を満喫しようと、心を躍らせているのではないでしょうか。 大学では大いに勉学に励んでください。 多くの本を読み、あるいは大事な書籍を精読し、知的な喜びを享受してください。 ただし、ときどきは「息抜き」をすることも忘れずに。 それは、『 書を捨てよ、町へ出よう』と 寺山修司が訴えかけたとおりでしょう。 とはいえ彼は、若者たちに単に繁華街へ出かけようと呼びかけたわけではありません。 そのメッセージは、読書によって得た知見を机上に留めず、外の社会と人に触れてじっさいの体験と結びつけなさいと勧めたものだったからです。 そこで本稿では、「町へ出る」ための一つの扉を開いてもらうために、ドイツ語映画鑑賞会に皆さんをお誘いしましょう。 ドイツ語映画鑑賞会は、人文学部ドイツ語学科の主催で二〇一三年度前期より始められ、基本的には授業期間中の毎月第一木曜日に中央図書館多目的ホールで開催されています。 毎回の企画・運営は、主にドイツ語学科の学生たちで構成されるドイツ語クラブ「シュタムティッシュ」(福岡大学公認愛好会)。 上映作品は基本的に図書館所蔵品ですので、鑑賞会当日に都合が悪くて来場できない方も、後日、図書館二階AVコーナー(Audio-Visual Room)で視聴することができます。 しかし可能な限り皆さんには鑑賞会の会場へ足を運んでもらいたいものです。 あえて「決められた時間」に、「決められた場所」で、他の方々と共にドイツ語の映画を鑑賞してみませんか。 続けて参加することで、映像と音楽が醸し出すヨーロッパ文化を体感できるようになるはずです。 さらに、映画鑑賞後に参加者同士で感想や考えを共有することによって、一人では決して得られない知的な喜びを感じられるはずです。 そのような他者との積極的な交流こそ「町へ出る」ことの意義にほかならないのですから。 ドイツ語映画鑑賞会では、できるだけ良質の映画を皆さんがしっかりと体験できるように、教員・有志学生一同がそのお手伝いを行っています。 必要に応じて担当教員が映像作品の時代背景、言葉遣い、作品の意義等について簡単に解説しますので、ドイツ語映画に慣れていない方にも安心してご覧いただけます。 ドイツ語学習者はドイツ文化を目と耳で捉える良いチャンスですし、ドイツ語が分からなくても日本語字幕付きなので大丈夫です。 さぁ、皆で感動を分かち合いましょう。 是非、友人知人や御家族、御近所の方をお誘い合わせのうえ会場にお越しください。 以下には過去上映作品を列記しますので、見逃した作品は是非、図書館二階AVコーナーでご鑑賞を。 hum. fukuoka-u. php? html)をご覧ください。 第一回 『 グッバイ、レーニン』(解説担当:平松智久) 第二回 『 みえない雲』(解説担当:冨重順子) 第三回 『 ビヨンド・サイレンス』(解説担当:山中博心) 第四回 『 善き人のためのソナタ』(解説担当:マーレン・ゴツィック) 第五回特別編 モーツァルト『 魔笛』(解説担当:永田善久) 第六回 『 パイレーツ・オブ・バルト エピソード1』(解説担当:金山正道) 第七回 『 パイレーツ・オブ・バルト エピソード2』(解説担当:金山正道) 第八回 ディズニー映画『 アラジン』(ドイツ語吹替え、日本語・ドイツ語字幕)(ドイツ語クラブ) 第九回 『 飛ぶ教室』(ドイツ語クラブ) 第一〇回 『 コッホ先生と僕らの革命』(解説担当:有馬良之) 第一一回 『 愛より強く』(解説担当:マーレン・ゴツィック) 第一二回 『 カスケーダー』(解説担当:平松智久) 第一三回 『 マルタのやさしい刺繍』(解説担当:平松智久、大学院生一名) 第一四回特別篇 ベートーヴェン『 第九 第四楽章』(解説担当:永田善久) 第一五回 『 テディ・ベア誕生物語~全ての困難を乗り越えて』(解説担当:堺雅志、堺ゼミ生) 第一六回 『 ベルンの奇跡』(解説担当:交換留学生ビョルン・カスパー) 第一七回 『 マーサの幸せレシピ』(解説担当:森澤万里子) 第一八回 『 幸せのレシピ』(解説担当:秋好礼子) 第一九回 『 ミケランジェロの暗号』(解説担当:冨重純子) 第二〇回 『 9000マイルの約束』(解説担当:平松智久) 第二一回 『 おじいちゃんの里帰り』(解説担当:伊藤亜希子) 第二二回 『 ウェイヴ』(解説担当:スサナ・デル・カスティヨ) 第二三回特別篇 メンデルスゾーン『 夏の夜の夢』(解説担当:永田善久) 第二四回 スタジオ・ジブリ映画『 千と千尋の神隠し』(ドイツ語吹替え、ドイツ語字幕)(解説担当:冨重純子、大学院生三名) 手のなかの美術館 広瀬貞三 (朝鮮史) (1)坂田泥華『 日本の陶器・12・萩』(保育社カラーブックス、一九七九年) 焼き物では、「一楽、二萩、三唐津」といわれる。 初期萩焼は朝鮮の井戸茶碗を思わせる大ぶりの姿に、びわ色の釉薬がよく映える。 これに白い釉むらが生じ、一種の景色となる。 萩焼の祖である李勺光は文禄の役(壬辰倭乱)の時、日本に連行され、毛利輝元に預けられた。 彼の弟が李敬である。 二人の子孫は藩命として、長きに渡って萩焼を継承してきた。 現代の作家として、三輪休雪、坂田泥華朝鮮史、坂高麗三衛門、坂倉新兵衛、田原陶兵衛がいる。 (2)洲之内徹『 気まぐれ美術館』(新潮文庫、一九九六年) これは『芸術新潮』に連載された文章を、一冊にまとめたもの。 洲之内(一九一三~八七)の文章はあっちへ行ったり、こっちへ曲がったりと忙しい。 しかし、そこに彼の文章の巧みさがある。 現代画廊を自ら経営していただけに、絵画を見る目は確かだ。 多くの画家を発掘し、世に送り出した。 三六歳で夭折した松本竣介論は四回にも及び、最も力が入っている。 洲之内の死後、彼が残した絵画(洲之内コレクション)は、宮城県立美術館に寄贈された。 (3)小松正衛『 北大路魯山人』(保育社カラーブックス、一九七四年) 魯山人(一八八三~一九五九)は書、篆刻、絵画、漆芸、扁額、陶磁器、料理に通じた美の天才である。 そのほとんどを独学で取得し、現在でもその評価は高い。 彼の人間性には欠点も多かったが、死後時間が経つにつれ残された作品群、特に陶磁器への関心は強まっている。 陶磁器の多くは日常用の食器であり、本来は自分の料理を盛るために創られた。 染付、織部、伊賀、備前、瀬戸を写しながらも、強烈な個性によって魯山人独自の作品となる。 どれかをカバンに入れておき、電車やバスの中で取り出してながめる。 好きな絵にすっと心が入り込み、世俗の雑踏を忘れる。 東山魁夷(一九〇八~九九)は戦後を代表する日本画家の一人であり、風景画を得意とした。 晩年は、唐招堤寺全障壁画の大作に挑んだ。 この本には初期の「残照」、「道」から晩年の「山峡飛雪」まで五五枚が盛られている。 私は青の濃淡で描いた、清冽な「山嶺白雲」を好む。 (5)久保貞次郎監修『 日本の美術館』(徳間文庫、一九八六年) 旅先では、美術館をできるだけ訪れる。 知らなかった画家の作品に出合い、図録でしか見ていない絵の実物を目にする。 心の中に、たくさんの栄養分が吸い込まれる。 この本には全国五四ヶ所の美術館が、代表的な作品とともに紹介されている。 次の訪問先は足立美術館(島根県安来市)、その次は笠間日動美術館(茨城県笠間市)と狙いを定めている。 (6)小松正衛『 李朝のやきもの』(保育社カラーブックス、一九八二年) 韓国・ソウル市にある国立中央博物館は三階建で、通路の両側に六つの大展示室がある。 この中でしばしば訪れるのが、陶磁器の部屋である。 白磁は朝鮮王朝(一三九二~一九一〇)を代表する民族文化の精髄である。 朝鮮王朝は李成桂によって建国されたため、李朝ともいう。 この本は朝鮮時代の多様な陶磁器を、簡便にまとめたもの。 三島(粉青沙器)、刷毛目、染付、白磁、辰砂、鉄砂は人間味に溢れ、穏やかで、心暖かく、見る者を飽きさせない。 〈人間学〉のススメ 馬本誠也 (英文学) 1.内村鑑三『 後世への最大遺物』(『 世界教養全集9』平凡社刊行、一九六二) 物質主義や自己中心主義が横行している今の時代に、このような書物を紹介すること自体、アナクロニズムの誹りを免れないかもしれない。 だが、この本を読み、私は久しぶりに本当の日本人に触れた思いがした。 「生きる」ことの意味やこの世に生きる使命感を彼ほど純粋な力強いことばで語れる人は、そう多くないはずだ。 ここに示されているいくつかの生き方は、おそらく真摯に自分の行き方を模索している青年の魂に深く訴えてくるのではないだろうか。 わたしは、すべての学生にこの書物を推薦しようとは思わない。 こころの奥底から聞こえてくる〈内なる声〉に耳を澄ますことのできる人であれば誰でもいい。 「わたし」とは、いったい何者であるのか。 自然界における人間の位置づけをどう考えるのか。 「社会」と「個人」はどのように関わり合っていけばいいのか。 およそ人文学部に身を置く学生であれば、内村鑑三のような高い志しをもった日本人の声に謙虚に耳を傾けて欲しい。 〈文化〉の意味や、外国語を学ぶ楽しさとすばらしさが、すべてこのなかで語られている。 この書物は、すでに過去数年にわたって紹介してきているが、今日の日本の時勢、日本を取り巻く世界情勢を考えると、どうしても今の若い人たちに贈りたい書物の一冊である。 内村は、その中で、こう言っている。 「われわれは、何をこの世に遺して逝こうか。 事業か。 思想か。 これいずれも遺すに価値のあるものである。 しかし、これは何人にも遺すことのできるものではない。 ……何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか。 自分で所有したい場合には、インターネットの「日本の古本屋」を検索すれば、必ずどこかの古本屋が出しています。 2.吉田健一『 英国の文学』(岩波文庫) ずいぶん昔のことであるが、大学の文学部に入学して、さてこれから何を勉強していこうかと、漫然と思案していたとき、たまたま書店の本棚で見つけたのがこの書物であった。 英国、および英国人の風土や文学をこれほど見事に語った書物は、そう多くないと思う。 わたしがイギリス文学を専攻したのも、この書物に触れ、その感動を少しでも追体験したいという気持ちに駆られたからであった。 爾来、この書物はわたしの本棚から消えたことが無い。 折に触れ、その一部の詩や名文を味読している。 たとえば、シェイクスピアの十四行詩をつぎのような名文に訳出している。 君を夏の一日に譬えようか。 君は更に美しくて、更に優しい。 心ない風は五月の蕾を散らし、 又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。 太陽の熱気は時には堪え難くて、 その黄金の面を遮る雲もある。 そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、 偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。 併し君の夏が過ぎることはなくて、 君の美しさが褪せることもない。 この数行によって君は永遠に生きて、 死はその暗い世界を君がさ迷っていると得意げに言うことは出来ない。 人間が地上にあって盲にならない間、 この数行は読まれて、君に命を与える。 このソネットの解説を始めとするシェイクスピアや幾多の文人を語る重厚な文体については、多言を弄する必要はないと思う。 まず、手にとって読んでみることだ。 進化するミュージカル 光冨省吾(アメリカ文化・文学) 小山内伸著『 進化するミュージカル』(論創社) ミュージカルの起源はイタリアのオペラにありますが、二〇世紀初頭のニューヨークの劇場街で誕生したブロードウエイ・ミュージカルは元のオペラから大きく変貌し、今やニューヨークだけでなく世界中で受け入れられるようになりました。 ミュージカルの発展には(英語がわからない)移民の多いニューヨークの社会的事情もあり、セリフだけでなく音楽やダンスなども取り入れたショーが発展してきました。 ミュージカルは基本的に翻訳家井上一馬が述べているように「人間賛歌」であり、アメリカ人の楽天的な国民性も反映されてハッピーエンドで終わる作品がほとんどですが、人種差別などの社会問題も次第にテーマとして取り上げられるようになり、一九五七年の『 ウエストサイド物語』では悲劇のミュージカルも制作されるようになりました。 ここで紹介している本は主として一九七〇年代から二一世紀にいたるまでの最新のミュージカルの代表作を中心に紹介しています。 著者は執筆当時朝日新聞の記者で、新聞に劇評を書いていました。 この本ではタイトルにあるように「進化する」ミュージカル作品を紹介しています。 たとえばオペラのようにほとんど歌と音楽で構成されているアンドルー・ロイド・ウエバーの作品(『 キャッツ』と『 オペラ座の怪人』)は『 レ・ミゼラブル』や『 レント』に引き継がれています。 また同じメロディーを異なる歌手が異なる歌詞を歌うことでそのコントラストが生じるロイド・ウエバーの手法はスティーブン・ソンドハイムのようなアメリカの代表的なミュージカル作家にも大きな影響を与えています。 その他にもミュージカルの伝統を踏まえた上で、新しい工夫がなされた作品が続々と制作され、多くのファンを魅了しています。 この本を読んで劇場に足を運ばれるようになれば幸いです。 歴史と文学との垣根をとり払おう 森茂暁 (日本史) 福田秀一・岩佐美代子・川添昭二他校注 新日本古典文学大系 『中世日記紀行集』(岩波書店) 創造的な人生を送るには、柔軟な頭脳と大胆な発想とがまず必要でしょう。 身近なことでは、たとえば卒業論文のテーマ探しや執筆のさい、このことは決定的に重要です。 常日頃から固定的な物の考え方をしないで、自分の頭で物事をのびのびと考えてみましょう。 ここでは、文学の史料は歴史の史料として充分に活用できるということを述べます。 例えば、鎌倉初期成立の『 平家物語』、鎌倉末期成立の『 徒然草 (つれづれぐさ)』、南北朝末期成立の『 太平記』などは、高等学校の段階まではいずれも文学作品として扱われ、古典の時間に読まれます。 しかし、このような作品は同時代の歴史を知るための史料として極めて有用で、価値の高いものです。 今度は歴史の史料として再読しましょう。 むろん原文で。 この場合肝心なのは、一部分ではなく全部を読み通おすことです。 きっと感動が湧きおこります。 古典のもつ不思議な力です。 さて、冒頭にあげた書物はそれに類するものです。 日本中世の紀行文(旅行記)が多く収められています。 中世日本人の旅行意欲をかきたてたのは(すべてが単なる旅行ではありませんが)、十四世紀の南北朝の動乱を通した人々の地理的視野の広がりだと筆者は考えていますが、この動乱を契機に国内を旅する人が増えてきます。 そのようななかで、紀行文が書かれるわけです。 それらは主として国文学のジャンルで研究の素材となってきましたが、歴史の方ではほとんど無関心です。 このような紀行文が、どのような意味で歴史研究に有用かというと、たとえば、阿仏尼 (あぶつに)の「 十六夜日記 (いざよいにっき)」は、十三世紀後半(鎌倉時代)の所領訴訟関係史料としてはもとより、東海道(京都と鎌倉をつなぐ基幹道路)の交通史の史料としても使えますし、また、連歌師宗祗 (そうぎ)の「 筑紫道記 (つくしみちのき)」は、十五世紀後半(室町時代)の筑前・豊前国(福岡県)、特に博多の人々の生活や周辺の景観をくっきりと描き出しています。 一例をあげますと、筥崎宮 (はこざきぐう)を訪れた宗祗 (そうぎ)は博多湾をへだてて、夕日のなかの可也 (かや)山(福岡県糸島郡志摩町)をながめ、「富士に似たる山」と感慨深げに書き留めています。 同記は、大内氏研究のための史料としても貴重です。 同書では丁寧な脚注や解説が施されていますので、容易に読み進むことができます。 さあ、実際この本を手にとって、読んでみましょう。 JR各社も上場後は同様の傾向を強めている。 ただ、大都市圏の大手私鉄と異なり、その広域性から過疎地域を抱え、鉄道部門は多くの路線で赤字ということがない訳ではない。 このため、株主を意識してかどうか分からないが、公共交通機関として担うべき使命を忘れ、ローカル路線を切り捨てよう、或いは地方自治体に押し付けようとする。 特に新幹線が開業すると、そのような話になっているのであろうが、並行する路線はほぼすべて第三セクター化される。 この場合、列車本数が増えることもあるが、運賃は高騰する。 JR各社の仕儀も経済性の論理で、一方的に非難できない。 しかし、路線の廃止・バス路線への転換は、沿線地域の衰退を加速させ、地方自治体や地域の人たちの負担を増加させる。 これらのことは、福岡市やその周辺地域の如く交通の便がよいところに住む人間にとって無関係で、他人事であろう。 しかし、「線路は続くよ、どこまでも…」ではないが、鉄路で全国は繋がっている。 博多駅が大阪駅・東京駅に繋がるように、例えば、隣県の山口県山陽小野田市にある長門本山駅、朝二本・夕方一本の発着しかない盲腸線の行き止まり駅にも繋がる。 このような一日に数本しか列車の来ない駅からでも、鉄路によって福岡・大阪・東京に必ず辿り着ける。 地域として孤立していない、どこかと結ばれているという実感は、整備された道路より、鉄路の方でより強く感じられる。 移動手段として路線バスも地域の足として無視できない。 しかし、「公共圏」の点から鉄道の優位性を述べられた、原氏の指摘は適切である。 原 武史『 講談社現代新書 思索の源泉としての鉄道』(講談社・二〇一四年刊行) 東日本大震災と鉄道を論じられた「第1章 東日本大震災と鉄道」「第7章 鉄道復興の軌跡」、高千穂鉄道廃線後の沿線地域の様子などを報告された「第4章 断たれた鉄路をゆく」は、必読である。 これらでは、バスに代替された地域や乗客の様子が描かれている。 一般にバスに代わると、運賃が上がり、所要時間がかかる。 このため、通学で利用する子供たちとその家族の負担は大きくなる。 例えば、高千穂鉄道の廃線後、延岡市内の高校に通う生徒が市内に下宿したり、一家揃って引っ越しをしたりしたという。 当然、このような事態は地域の衰退に繋がる。 様々な目的で人は旅に出る。 日常生活の中で見失いかけたものを取り戻そうとするときや自分自身を見詰め直そうとするとき、スマートフォンは自宅において一人静かにローカル線の揺れに身を任せるのがよい。 それが結果的にその路線の乗車率を僅かでも高めることになれば、どこまでいっても傍観者に過ぎないことが分かっていても、些少ながら心が軽くなる。 そして、後続列車の時刻を確認して、途中下車をする。 本稿「その三」では、『NOVIS 2011・2012』「その二」で「マイナーローカル線」と称した路線の一つ・三江線の魅力を紹介する。 「その二」で「マイナーローカル線」とは、「全国的に知られた観光地、絶景の山岳や渓谷、貴重な鉄道施設など、沿線に取り立てられるものを有さないローカル線」と規定した。 基本的に現在も同様なものと考える。 ただ、最近、路線によっては「廃屋や廃校、荒れ果てた田畑、倒木の夥しい山林などを見掛けることは殆どない」とは必ずしも言えないことに気付いた。 * * * 三江線は、広島県三次市と島根県江津市を結ぶ一〇八・一キロに及ぶ、陰陽連絡線の一つである。 注(1) 三次の読みは、「みよし」で間違えることはなかろう。 一方、江津は、二〇一五年九月の乗車の際、兵庫県三田市からやってきたという大学生らしき乗客は「えつ」と言っていた。 よく乗車券が購入できたものである。 江津は「ごうつ」である。 そして、三江線は「さんこうせん」である。 九州からであると、江津駅にしても、三次駅にしても、そこに至るまで多大な時間を要する。 しかし、完乗に値するマイナーローカル線である。 三江線は、陰陽連絡線の中でも木次線・美祢線とともに優等列車の走らない路線である。 ただ、木次線は、「奥出雲おろち号」なる観光列車が運行される如く随所に見所・絶景が存する。 このため、二〇一二年の一二月中旬という閑散期にも関わらず、重そうな一眼レフカメラを抱えた、その筋の乗客が起点の宍道駅から同乗していた。 更に一番の見所となる、出雲坂根・三井野原間ではツアーバスに乗せられた、中高年の団体客が大挙して乗り込み、一両の気動車は、福岡市営地下鉄のラッシュ時の混みようとなり、女性客が多いことも加わり、異様な喧噪に包まれた。 出雲坂根駅は、名水として知られる「延命水」が沸き、数少ない三段スイッチバックの駅である。 更に登ると、奥出雲の山並みが臨め、トンネルの合間から国道三一四号線の螺旋を描く白いおろちループ橋が間近に飛び込む。 「その二」注(7)ではこのような路線を「有名ローカル線」と称した。 ちなみに、彼女らの降り立った三井野原駅(JR西日本の最高地点駅・標高七二六メートル)で待っていたのは、JRバスであった。 一方、美祢線は、マイナーローカル線の名にふさわしい路線の一つで、いずれ紹介したい。 ただ、昔は急行「あきよし」など、最近は焼きとり列車やサロンカー「なにわ」などの観光列車が不定期ながら運行され、沿線には山口県内で指折りの温泉地・湯本温泉を有する。 これら二線に対して、三江線は、一九七五年に全線が開通して以来、特急は当然のこと、急行も走ったことがない。 定期的な観光列車もなく、九州で知られた観光地・温泉地も沿線にない。 石見銀山・三瓶山の南域を走るものの、これらは沿線の駅から簡単に行ける距離でない。 あるのは、ほぼ全線にわたって沿う江の川だけである。 即ち、三江線は典型的な「川線」である。 その様は、例えば、久大線の夜明駅付近の如く、川に刻まれた谷の左岸・右岸に鉄路・道路がそれぞれ敷設され、それが延々と続くとイメージされたい。 江津駅を発車すると、江の川を渡ることなく、左岸を列車は進む。 対岸に集落が見えても、渡ろうとしない。 江津駅を発って約一時間で沿線の中心地と言える川本町の石見川本駅に到着。 その後、また三〇分少々で美郷町の粕淵駅に江の川を初めて渡って到着する。 三江線は地形に逆らわず、多く川岸の崖にへばりついて走る。 トンネル・鉄橋など、建設費用の掛かる建造物は、然るべき人口密集地に至る場合を除き、建造しない。 鉄橋は、支流を渡るときだけである。 当地域の高等学校は、川本町の川本高校、美郷町の邑智 (おおち)高校の二校であった。 しかし、両校は二〇〇七年に統合され、川本町の島根中央高校だけとなった。 高校生の減少は鉄道にとって乗客数の激減となる。 粕淵駅の次・浜原駅から鉄路は一転する。 一九七五年八月に三江北線と三江南線を繋げて全通させた新線に入るためである。 右岸に渡ったまま、長いトンネルを抜け、コンクリート製の高架をそれまでにない高速で駆ける。 中でも宇都井 (うづい)駅は、谷間の集落の上空二〇メートルに設けられ、一一六段の階段で上り下りをするという。 僅かな停車時間に左右を見下ろすと、石州瓦が二・三〇軒見える。 本駅は、二〇一四年九月二日『朝日新聞・夕刊』「ひとえきがたり」で紹介された。 そこでは「天空の駅」と称せられ、駅のファンクラブノートが設置されているという。 新線区間は、左岸・右岸を行ったり来たりするが、左岸の口羽駅で終わる。 それからそのまま左岸を走るが、一度香淀 (こうよど)駅のため右岸に渡るだけで、後は左岸を走り続ける。 秘境駅として知られる長谷 (ながたに)駅を通過すると、三駅目が三次駅である。 注(2) かなり上流に至ったにもかかわらず、川幅は広く、満々として河原は見えない。 市街地に入ると、高架で幾つか道路を跨いでカーブを下ると、右側から広島からの芸備線が寄り添い、三次駅に到着する。 直通運転の、待ち時間の少ない列車でも江津・三次間は三時間二〇分程度かかる。 即ち、江津から乗車した場合はほぼ左側の窓から、三次から乗車した場合はほぼ右側の窓から、江の川を眺めながら、新旧三パターンの鉄路を走る。 列車の運行もこの三区間に対応し、上り下りとも、江津・浜原間は五本、浜原・口羽間は四本、口羽・三次間は五本となる。 本線を一日で完乗しようとすると、江津駅発は六:〇〇、一五:一七、一六:三八、三次駅発は五:四六、九:五七、一六:五六の如く、三本ずつである。 福岡から出向き、全線で車窓から江の川を眺めようとすると、夏場でも列車は限られる。 分水嶺は、三次市の南西・安芸高田市の南端にあるため、路線の高低差は大きくない。 特に旧線は、高度を変えず、江の川に落ち込む山腹を削った隘路を川の流れに沿って進む。 このため、眼下に江の川の緑の水面を眺めることができる。 三江北線が開通したのは、一九三七年である。 江の川直上の山肌をどのように削って鉄路を敷設したのか、その頃の技術力を考えると、難工事であったことが容易に想像できる。 鉄路からしか見られない江の川の姿は貴重である。 また左記の三区間の中でも江の川は表情を変え、また季節によって異なる。 更にその流れを眺めるだけでなく、鉄路のあり様から厳しい自然環境と戦いながら鉄路を敷いた先人たちの辛苦を偲び、小さな駅周辺の集落ではどのような営みがなされているのかを考え、また小学校や保育園の建物を見ると、子供たちはいるのだろうかなどと窓に顔を近付けるなどすると、ウトウトする暇はない。 従って、本線に乗車する際には、地形の分かる詳細な地図を持参して欲しい。 本線に限らず、汽車旅において地図を持参すると、その楽しみは、数十倍豊かなものとなる。 また「川線」ならではの施設として見落としてならないものがある。 江津行きに乗車して、石見川本駅の次・因原 (いんばら)駅を出ると、支流の濁川を渡る。 鉄路施設後、堤防がかさ上げされたのであろう。 結果的に鉄路が堤防の一部を切り取って鉄橋に至るような作りである。 勿論、このままでは豪雨の際、増水した川水が住居地に浸入して、何の為の堤防か分からない。 そこで、堤防を切り取った部分に鉄の扉が設置してある。 通常は開かれたままで、列車の通過に支障はない。 後日それを「陸閘門 (りくこうもん)」ということを知った。 三江線が「川線」としてどのように江の川と共存して今日に至ったかが知られる施設である。 線内には他に数カ所に設けられているという。 乗車の際には、注意されたい。 * * * 「その二」では、途中下車が汽車旅を充実したものにする手立てであると述べた。 アウトドア派の人であれば、江の川はカヌー関係の施設が点在することでよく知られていよう。 しかし、人文科学関係で途中下車をして訪ねるべきところは、残念ながら私自身まだ訪れたことはないが、美郷町の粕淵駅の北西にある、斎藤茂吉鴨山記念館であろう。 県や町のホームページによると、斎藤茂吉の研究成果や写真などが展示されているという。 当館は、万葉歌人の柿本人麻呂の歌(『万葉集』巻第二・二二三番)や妻の歌(同・二二四番・二二五番)に基づいて、彼の没地を考察した「鴨山考」にちなんだものである。 茂吉が最終的に人麻呂の没地とした「鴨山」は、粕淵駅の北西約四キロに位置する標高三六〇メールの小山である。 柿本朝臣人麻呂在石見国臨死時、自傷作歌一首 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有 巻第二・二二三番 注(3) 一連の論考は、茂吉の全集に納められている。 論証や結論の妥当性はともかく、茂吉の人麻呂に対する情熱が感じられる。 「総論篇」「鴨山考補註篇」『斎藤茂吉全集・柿本人麿一 第一五巻』(岩波書店・一九七三年刊) 「雑纂篇」『斎藤茂吉全集・柿本人麿四 第一八巻』(岩波書店・一九七五年刊) 没地を決定するに当たって、茂吉は当地を踏査した際の直感を重視した。 踏査の詳細を記した文章も全集に収録されている。 茂吉が訪れた一九三〇年代、三江北線はほぼ開通しており、彼は乗車したようである。 そして、「江ノ川を主として、風光がなかなか佳く、若しこの三江線の鉄道が備後の三次まで完成したなら、この線は日本での一名所となるであらう、それほど風光の感じが佳い」(第一五巻「備後石見紀行」715頁)などと、三江線沿線の絶景を讃える。 一方の起点である三次市は、江の川(広島県では可愛 (えの)川)に馬洗 (ばせん)川・西城 (さいじょう)川・神野瀬 (かんのせ)川が合流する盆地にある。 このため、夏は鵜飼が行われ、秋から冬にかけては街を霧が覆い、「川霧の町」と言われる。 従って、当市のゆるキャラは「きりこちゃん」である。 また近年は物怪伝説の地として売り出し中である。 これは、江戸時代中期になった「稲生物怪録 (いのうもののけろく)」に基づく。 内容は、一七四九年、当地の浅野藩藩士の稲生平太郎(のち武大夫・一七三五~一八〇三)が十六歳のとき、三〇日間屋敷に現れる物怪(逆さになった女の生首が髪の毛を足にして飛んで歩くなど)や怪奇な現象(塩俵が飛んできて、頭上から塩をまき散らすなど)にたじろぐことなく耐えて、物怪の大将から讃えられ、木槌を与えられたという体験に依る。 平太郎の存命中から話題になり、更に平田篤胤が研究対象としたため、沢山の写本・版本が残された。 パラパラ眺めるだけでも楽しい。 三次駅のホームには、地元の高校生が作成した三次の観光案内のパネルが掲げてある。 そこには霧の海・鵜飼・花火・土人形・ワインの他に平太郎とろくろ首・一つ目小僧が描かれている。 駅から遠くない所に「稲生武大夫碑」や物怪録のコーナーの設けられた歴史民俗資料館がある。 また時間があれば、駅から路線バスを利用して、奥田元宋・小由女美術館を訪ねて欲しい。 日本画家・元宋の「月」をモチーフにした新しい世界が広がる。 * * * 私は、三江線に三度乗車した。 二〇〇六年三月は江津から三次へ、二〇〇九年九月・二〇一五年九月は三次から江津へ抜けた。 経年比較の可能な三次から江津への旅を紹介する。 二〇〇九年は、三次に一泊し、九:五七発の石見川本行きに乗車する予定であった。 しかし、倒木のため、折り返し列車が一時間程度遅れて入線した。 三次駅からの乗客は四・五名で、その筋と思われる若者一名がロングシートの右側前方に横座りをした。 石見川本駅では、遅れのため、人影のない商店街から役場前まで一回りするに留まった。 駅に戻り、同じ席につくと、前の方に同じ若者が座った。 昼食後でもあるためか、発車すると間もなく彼はウツラウツラした。 石見川本駅を過ぎると、江の川も見飽きてくるのも分からないでもない。 残念ながら、岩を噛む急流、川岸から聳える岩峰など、「川線」に期待される絶景は、多くないためでもある。 二〇一五年も二度目と同じ列車で、幸い定時に発車した。 乗客は、明らかに地元の方に見えない、一〇名近い男性が中心で、女性は地元のおばあさんと私の妻くらいであった。 また、過去二回はワンマン運転で、運転手だけの乗車であったが、今回は女性車掌が同乗していた。 そして、発車すると、乗客一人ひとりに声を掛け、どこからどこまで行くのかを尋ねてきた。 その他、六年前になかった様々な取り組みに気づいた。 例えば、三次駅では三江線活性化協議会の補助制度のチラシ(三江線回数券補助制度・マイカー回送プランなど)を手にし、三次駅は「土蜘蛛ステーション」など、石見神楽の演目プレート「神楽愛称駅名板」が各駅に設けられていた。 注(4) またあちこちの駅に「これからも地域とともに 祝JR三江線 全線開通40周年」の横断幕が掲げられていた。 客筋から察せられた通り、下車は殆どなく、三次駅を出発したときより多い乗客数で石見川本駅に到着した。 乗車した列車は、列車番号を変えるだけでそのまま江津行きとなる。 ホームに停車したままである。 ただ、発車時刻まで約一時間半あるため、乗客は下車させられる。 改札では、後で正体を知ったが、川本町観光協会の方が待ち受けられ、下車してきた乗客一人ひとりに声を掛けて、一二:〇九着ということもあり、駅近くの食事処や名所・旧跡を紹介するリーフレットを配り、更にどこからやってきたのかなど、声を掛けていられた。 こちらが応じると、関西・関東など、遠地からやってくる方も多い、このデータを取りまとめ、三江線を管轄するJR西日本米子支社に持参し、感謝された由も話された。 またそのようにして声を掛けた下車客の一人がJR西日本の社長であったとのことも語られた。 そして、二〇一三年八月の水害のため、因原駅先の「陸閘門」のある陸橋の支柱が流出して、約一年間運休したものの、ほぼ一年前の二〇一四年七月に全線で運転が再開したことを喜んでいられた。 このような地元の方との出会いも途中下車の楽しみである。 しかし、それから一ヶ月少々後の一〇月一六日、JR西日本が二〇一七年九月に三江線を廃止するとの計画を関係自治体に伝えたとの報道に接した。 三江線活性化協議会などの努力にもかかわらず、乗客数が一向に増加しないため、JRが見切りを付けたのであろう。 過疎地ゆえにモータリゼーションの進行が著しく、鉄道から離れてしまった地域の人たちを引き戻せなかったのであろう。 しかし、列車本数が日常利用の便に叶うものでなければ、たとえ様々な助成があっても引き戻しようのないのは明白である。 この報は、地元紙だけでなく、一一月一九日付け『朝日新聞・朝刊』の社説で「赤字の鉄路・地域の知恵で足守れ」と題して取り上げられた。 趣旨は、表題から知られる如く一方的な廃止反対でなく、バスや乗り合いタクシーなどの導入も含め、地方自治体が住民と知恵を出し合って望ましい公共交通を考えるべきというものであった。 福知山線の事故や背後の思惑に触れないなど、JR西日本の経営体質や方針に切り込むことのない、表面的な綺麗事を並べているだけに思われた。 このとき、思い出したのは、石見川本駅で出会った観光協会の方であった。 この報に接し、どのように思っていられるのだろうか、また今後どのような取り組みをされるのであろうか。 * * * 一九九〇年代から、意識して西日本のマイナーローカル線やローカル線に乗車してきた。 近年は、ツアーバスで運ばれ、一・二区間だけ乗車してくる輩と遭遇することが多い。 江の川の絶景を求めて、いずれ三江線に出没するかもしれない。 それはそれで、運悪く乗り合わさなければ、三江線にとって悪いことでない。 その一方で、中高年男性の一人旅を見かけることも多くなった。 例えば、三江線でも、このような乗客が多いことは先に述べた。 木次線でも三度の乗車のうち、二度目(二〇〇九年一〇月)から見掛け、三度目(二〇一二年一二月)はそこそこの人数であった。 また二〇一五年の三江線では、江津駅まで乗り通した乗客の多くが温泉津 (ゆのつ)温泉や出雲市・松江市に向かうことを知った。 彼らの出発地をすべて聞き知った訳でないが、広島市・岡山市、更に関西方面からであれば、大回りをして目的地に向かっている訳である。 注(5) 即ち、行き先が有名な観光地・温泉地であっても、特急列車や高速バスで一直線に向かうことなく、マイナーローカル線やローカル線で、勿論、走っていない場合もあるが、観光列車を利用することなく、時間を掛けて目的地に向かうのである。 「鉄道はただの移動手段ではなくなり、その空間で過ごす時間そのものが、かけがえのない価値」(前掲・原(二〇一四)202頁)を有すると言われる。 鉄道を単なる移動手段と考えない、このような価値の分かる人たちが増えていると言える。 これら中高年の乗客は、重そうなカメラを持ち、車内を歩き回ってシャッターを切ることはない。 ロングシートに横座りになったまま、振り返ったり、背を伸ばしたりして、車窓を眺め、時折コンパクトカメラで写すくらいである。 また運転席横のフロントガラスの前に立って、視界を遮ることもない。 眼鏡を外して時刻表を開くことはあっても、スマートフォンの画面を長時間見入ることはない。 或いは、私が一番落ち着きがないかもしれない。 また中高年とは言え、夫婦連れは少ない。 このとき江津駅まで乗り通した乗客で夫婦連れは我々だけであったかもしれない。 観光地・温泉地を夫婦で目指す場合でも、奥さんは特急列車や高速バスで向かい、現地集合にでもなっているのであろう。 ちなみに、予想した通りであるが、我妻はしばしば昼寝をして、三江線の記憶は断片的なはずである。 お陰で一人旅が楽しめた。 * * * JR九州でも観光列車が話題を集め、件の豪華寝台列車の予約は二〇倍を超えるという。 このようなお仕着せの旅でも、ありがたがる人が多いのも事実である(多くは、富裕層や外国人のようであるが)。 これはこれで鉄道部門の収支改善のためには必要である。 しかし、誰もがそのような高価で、豪華な汽車旅を望んでいる訳ではない。 また誰もが簡単に楽しめる訳でもない。 そして、本当の汽車旅の楽しみが分かろうはずもない。 谷川一巳氏は、観光列車は「ローカル線のテーマパーク化」「手っ取り早くその地域を楽しめる … 「本当の楽しみ方」を知らない利用者用 … テレビや雑誌で見た通りにしか旅をしていない。 旅下手というか、旅のオリジナリティを感じない」のであって、提供されるのは「作られた旅情」と断じる(谷川一巳『 光文社知恵の森文庫 ローカル線ひとり旅』光文社・二〇一四年刊、9頁)。 勿論、本当の汽車旅を知るきっかけになれば、観光列車も悪くはないのであるが… 汽車旅の楽しみは、自身の非日常と他者の日常が交差するところに生まれる。 非日常に満ちた観光列車で得られない、ありふれた非日常=他者の日常に出会うため、私は時刻表と首っ引きで旅程を考え、マイナーローカル線やローカル線に乗る。 車窓や車内を眺め、時折聞こえてくる会話に耳を傾ける。 そして、出会いを求めて途中下車をする。 沿線地域の人たち、沿線地域の発展を第一に考えなければならないが、価値の分かる、汽車旅を愛する人々のためにも、広島県と島根県石見地方を結ぶ唯一の陰陽連絡線である三江線を存続させる方途を考え、存続のための運動を大きくしてゆかなければならない。 中国地方の公共交通体系に関わる問題でもある。 盲腸線で、二〇〇三年に切り捨てられた可部線の可部・三段峡間とは事情が異なる。 【付記】三江線に関するホームページで、代表的なものは次の二種である。 jimdo. yuyumura. html[旧] 新しい方のページに掲載されている四コマ漫画「三江線クルーズ」は、私の文章より分かりやすく、詳細に三江線沿線の魅力を伝えてくれる。 注 (1) 「陰陽連絡線」とは、山陰と山陽をどのように捉えるかで異なる。 私とすれば、これらは準陰陽連絡線である。 前二群の路線のうち、伯備線は、岡山と出雲地方を結ぶ重要路線として電化され、特急がひっきりなしに走る、因美線は、智頭・鳥取間が智頭急行と接続して、関西・岡山方面からの特急が乗り入れる(従って、智頭・東津山間は完全なローカル区間で、いずれ紹介したい)、山口線は、九州方面から山陰諸地域への路線として、特急が走り、「SLやまぐち号」が旧小郡・津和野間で運行される。 (2) 「その二」で紹介した牛山隆信『 小学館文庫 もっと秘境駅に行こう!』(小学館・二〇〇三年刊)で長谷駅が取り上げられ、「駅の周囲に人家はまったく見えない。 … 本流に流れ込む支流が見えて、その方角に三、四軒ほど民家らしきものが確認できる。 この駅の一日の乗客数は、資料によると四人(!)となっている」(57頁)と記される。 朝二本の三次行き、午後三本の口羽・浜原行きが停車するだけである。 秘境駅を扱ったテレビ番組で取り上げられたことのある駅で、途中下車の難しさも相俟って、秘境駅探訪家には垂涎の駅である。 ただ、乗車していて分かるが、三江線は中国地方有数の過疎地域である石見地方を抜ける鉄路とは言え、地形的に人の住めない場所を除くと、意外と人家が途絶えることがない。 車中から確認する限り、駅周辺で人家が全く見られないところは、記憶がない。 また、廃墟と化した住宅や荒れ果てた田畑は、思った程、多くない。 (3) 佐竹・山田・工藤他『新日本古典文学大系1 万葉集一』(岩波書店・一九九九年刊)では、この詞書き・短歌を次の如く解釈する(163~164頁) 柿本朝臣人麻呂が石見国にあって死ぬ時に、自ら悲しんで作った歌一首 鴨山の岩を枕に伏している私なのに、それとは知らずに、妻は今も待ち続けていることであろうか。

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